― 554 ―― 554 ―として、浮世絵は「新浮世絵」という一つの理想形にかたちをかえて受容されていったと考える必要がある。帝展が発足した大正8年以降、鏑木の門下生たちの官展における活躍には目覚ましいものがある(注14)。第1回帝展の《振袖物語》で初入選を果たした山川秀峰(1898~1944)につづき、柿内青葉(1892~1982)、門井掬水(1886~1976)、榎本千花俊(1898~1973)、伊東深水(1898~1972)、小早川清(1899~1948)、寺島紫明(1892~1975)、西田青坡(1895~1980)といった、郷土会の中核をなす画家たちがぞくぞくと帝展入選を果たしている。〔表1〕の推移からも明らかな通り、弟子たちが大量入選を果たすのは大正15年の第7回帝展からで、帝展の入選作総数こそ年々増加傾向にあったとはいえ、大正末から昭和初期にかけての画壇の地政学において鏑木一門を、帝展の一大勢力とみなすのはそう難しいことではない。そんななかでも鏑木の弟子たちは、郷土会において「新浮世絵」の実現を目指していた。弟子たちが帝展に大量入選を果たす1年前、伊東深水は「今後の郷土會展」という文章のなかで「郷土會の将來に就て、鏑木先生のお話を取次ぎます」と断った上で次のように述べている。「浮世繪といへば、直に美人畫といふことに響くが、それを社會畫という意味に立脚して、主観を中心にして、材題を選び、表現を考へ、おのづから他に追随を許さぬ独特のものにしたい。/それには単に純繪畫でなくとも、ポスターの形式によつたものでも、印刷に出來上つたもの、木版の刷上つたもの、或は緞張のやうなものでも差支ない、すべて社會畫という立場から成つた、主観の玲瓏を望むのである。/そこで會員には郷土會の展覧會に必然的の理解力を要し、ある劃然とした内容を齎らすことを期待する、そして新社會畫を建設したい」(注15)。引用文中では「社会画」という言葉が用いられてはいるものの、伊東のこの言説は、「新浮世絵」という一つの理想形が、鏑木から弟子や孫弟子たちへと、世代を超えた拡がりのなかで継承されていることの証左と言えるだろう。鏑木が「社会画」という新たな理念を掲げて浮世絵の理想形を表明するのは、昭和3年のことである(注16)。おわりに日本近代における浮世絵受容のあり方を総合的に検証するためには、鏑木清方の画業のみならず、郷土会、朗峯画塾、青衿会、新版画なども含め、さらには鏑木が明治期に結成した烏合会にまで遡り、これらを一つの運動体として捉える研究視角が求められる。私見では、明治以降の浮世絵系画家たちの浮世絵受容のあり方は美人画に限定されるものではなく社会画、社会風俗画といった新ジャンルの確立を志向する原動
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