鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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図版・表リスト・出典図1 「東都錦繪數寄者番附」『浮世絵文献目録』(味燈書屋、1972年)より転載(p55.)図2 『教育歴史画譜』明治30年頃か 個人蔵図3 鏑木清方《小松重盛》(『教育歴史画譜』より)図4 鏑木清方《太田道灌》(『教育歴史画譜』より)図5  鏑木清方「版画生活の回顧」 ― 556 ―― 556 ―⑽日本美術学院の通信美術教育に関しては、根崎光男「金鈴社考」(『大正期の日本画 金鈴社の五人展』練馬区立美術館、1995年)、田中日佐夫「わが国近代美術史における田口掬汀の業績」(『大正画人ネットワーク 田口掬汀が拓いた「中央美術」』秋田県立近代美術館、1996年)、角田拓朗「美人画から風俗画へ 鏑木清方の官展再生論」(『近代画説』16号、明治美術学会、2007年)、「日本美術学院 通信美術講座『日本画講義』について」(『鏑木清方と金鈴社』鎌倉市鏑木清方記念美術館、2019年)などを参照。⑾詳細については拙稿「『美人画』と『浮世絵』のはざまで 鏑木清方の『新浮世絵講義』をめぐって」(『紫陽花』第3号、美人画研究会、2020年)参照。⑿郷土会の「宣言書」は国画創作協会の「宣言書」に感化されて発表された可能性がある。詳細については拙稿「鏑木清方と郷土会の画家たち~浮世絵と社会画のはざまで~」(『美人画の諸相─浮世絵・団体・メディア─』東海大学、2016年4月)参照。⒀「新浮世絵」に関するこのような言説は当該文献以外にほとんど知られていないが、今回の調査で少なくとも大正9年頃までは「大きく言つて生きた社會、人生の眞相を眞摯に表現して行く一派」という言説が流布していたことが確認された。新出資料「現代画伯大家列伝(其二十四) 鏑木清方先生」(『丹青』第4巻第7号、丹青発行所、大正9年5月19日)参照。⒁鏑木清方の弟子たちの活躍については拙稿「『浮世絵末流』の水脈」(『紫陽花』第2号、美人画研究会、2019年)参照。⒂伊東深水「今後の郷土會展」(『藝術』第3巻第10号、藝術通信社、大正14年5月15日)p3. 同記事によると、郷土会第10回展の終了後、師の鏑木は「郷土會もゝう十回の展覧会を開いた、こゝらで解散したら何か」と自宅に集まった弟子たちに解散を促し、「郷土會展覧會は現状を持続したのでは何にもならない、何かそこに独自の内容を持つ團體としてゞなければ、少しも存在の必要はない、日本畫會にしろ、中央美術展にしろ、さういう會に所屬して澤山である」と述べ「もし郷土會の展覧会をこの上つゞけやうとするならば、統一した内容をもつ新興大和絵會、または國畫創作會の如く、主義的、思想的とかの統一をもつ、乃至形式をもつた、旗織鮮明な團體にしたい」と語ったという。⒃鏑木清方「眞の浮世繪 社會畫に就いて」(『文芸時報〈美術版〉(第79号)』昭和3年8月16日附)1面『正則洋画講義・新日本画講義定期増刊第1─第2』名古屋市鶴舞中央図書館蔵図6  『定期増刊1、2』(合本)表紙 『正則洋画講義・新日本画講義定期増刊第1─第2』名古屋市鶴舞中央図書館蔵図7 『新日本画講義第1号第2号(合本)』表紙 名古屋市鶴舞中央図書館蔵図8 『新日本画講義第3号第4号(合本)』奥付 名古屋市鶴舞中央図書館蔵表1 鏑木門下の帝展入選(人数)の推移(『日展史』のデータに基づき作成)

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