鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 561 ―― 561 ―(1)障壁画る。また、ヨーロッパへ日本情報を提供する中心的な役割を担ったイエズス会に所属し、長期にわたり滞日したフロイスのほか、貿易や植民地経営のためにゴアやマニラに赴任したリンスホーテン、モルガらのように、訪日経験は無いが着任地で日本人や日本の動向に接する立場にあった人々の著作にも目配りした。本来は原本にあたるべきだが、言語の問題に加え、いずれも数種の伝本が各地に分散しており校訂が困難を極めるため和訳本に依拠した。幸いにして関連の欧文文献の多くが先学によって邦訳されており、本研究ではそれらを使用し、出典を明記して引用箇所に遡れるよう心がけた。先掲の文献から絵画作品にかかわる記述を抽出し、次章では日本の伝統的な技法や主題の絵画を、3章では日本に新しくもたらされた西欧起源の絵画を整理し、当時の受容、流通の様子を探る。2.伝統的技法、主題の絵画欧文史料には障壁画や仏画など、日本における伝統的な技法や主題の絵画に関する記述がみられる。なかでもフロイス『日本史』は、イエズス会の書翰や年報を多く引用し、特定の場所や受容者などの付加的情報が多く、これを軸に整理する。障壁画に言及した古い記録のひとつに、永禄8年(1565)10月25日付のルイス・ダ・アルメイダの書翰がある。アルメイダは松永久秀の多聞山城について「壁は悉く昔の歴史を写し、絵を除き地は悉く金」(注10)とし、フロイスはそれが日本、中国の故事であったと述べる(『日本史』第1部60章)。永禄5年10月28日付の久秀書状によると、この障壁画制作には狩野派(松栄か)が起用されたことがわかり、狩野派による金地濃彩障壁画の初期例の一つとして注目される(注11)。後年この障壁画は織田信長が造営した誠仁親王の二条新御所に再利用されたという(『日本史』第1部83章)。二例目は、永禄12年(1569)竣工の足利義昭の旧二条城に関する記述である。『言継卿記』にも記されるこの造営について、フロイスは、信長が「(六条本圀寺の)きわめて巧妙に造られた塗金の屛風とともに、あるがままこの寺院のすべての豪華な部屋を取り壊し、それを城の中で再建することを命じ」たと述べる。ここでも障壁画が再利用されたことがわかる(『日本史』第1部83章)。同年フロイスは岐阜城を訪ねた。信長自らの案内で城内を回り、絵画のある金地屛風で飾られた約20の部屋、中国や日本の物語を描いた金地障壁画などを見学し、後日、

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