― 562 ―― 562 ―再び招かれて金地屛風や矢で飾られた山城を見たという(『日本史』第1部89章)。なお、岐阜城にも日本や中国の故事を描いた襖絵があったようだが、主題は不明である。宣教師たちは、後述するような瀟湘八景に寄せた関心を、故事図の類には示しておらず、画題に触れた記述はロドリゲスが物語図の一例として二十四孝図をあげる(『日本教会史』第2巻2章)程度で、ほとんど目にしない。狩野永徳が制作した安土城障壁画は『安土日記』『信長公記』に詳述され、フロイスも安土の殷賑を描写するのに筆を惜しまない。だが、障壁画に関しては「おびただしい部屋の塗金した絵画の装飾」、「塗金した屛風」(『日本史』第1部84章)、「内部にあっては、四方の壁に鮮やかに描かれた金色、その他色とりどりの肖像が、そのすべてを埋め尽くしている」(『日本史』第2部31章)と短くまとめる。地上一階の墨梅図から最上階の三皇五帝に至る多様な画題のなかで金地濃彩の「肖像」だけを特筆するフロイスの視点は、人物画を建築装飾的な草花図よりも上位に置く西洋美術の伝統的な序列認識に根ざすとの指摘がある(注12)。フロイスは金屛風の存在にも触れており、金碧障壁画と相まった城内の濃密な空間が想像される。大坂城内は、「種々様々の絵画」、「日本人がもっとも得意とする大小の鳥、その他自然の風物を描いたものや、日本およびシナの古い史実を扱った絵」で飾られ、「それらは我らの言葉でいえば金ピカ」であったと評する(『日本史』第2部66章)。また、天正14年(1586)に秀吉が副管区長ガスパル・コエリョを引見した座敷は「縦十三畳、横四畳の広さ」で、「樹木や鳥が黄金を持って描かれており、関白は奥の上座に坐し、絶大な威厳と貫禄を示していた」(『日本史』第2部75章)。ロドリゲスも日本建築の特徴を論じるなかで、「われわれは、太閤の大坂の御殿と、江戸の将軍の御殿とで時折見た」とし、襖絵の主な画題として山水図、四季絵、花鳥図、武者絵、故事図、鷹狩図などを列記する(『日本教会史』第1巻12章5節)。ロドリゲスは、永徳一門による大坂城障壁画や、後年狩野光信が関与したとされる江戸城障壁画を念頭に上記を記したのだろう。続く2例は九州である。臼杵丹生島城が天正16年(1588)1月2日に城下で発生した失火がもとで炎上し、大友宗麟がキリスト教改宗前に建てた「黄金の部屋」も烏有に帰した(『日本史』第2部112章)。これを狩野松栄の豊後下向(『丹青若木集』)あるいは元亀2年(1571)の永徳の臼杵城障壁画制作(「中江周琳宛宗固書状」、『大友興廃記』)と関連付ける解釈が示されている(注13)。島原半島に有馬氏が構えた日野江城は、「黄金と絵画とによってすこぶる豪華に、かつ優雅に飾られ」ていた(『日本史』第3部1章、1590年度日本年報)。有馬晴信が
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