― 563 ―― 563 ―(2)枯木図天正18年(1590)に帰国直後の天正遣欧使節を新しく竣工した屋敷に招いた時の記述である。その5年後にスペイン出身の商人アビラ・ヒロンが同城で晴信に謁見し、花木走獣や四季絵を描いたと思しき城内の金地濃彩の障壁画について詳述している(『日本王国記』1章4節)。ただし、ローマ・イエズス会文書館所蔵の『日本王国記』写本には宣教師ペドロ・モレホンが加筆した注があり、上記箇所には「(ヒロンは)日本ではごく普通のものであるこの家以外には見ていないし、都には全然行っていない。都の家のように立派なものは、長崎の周辺の村にはない」(大航海時代叢書11、75頁)と水を差すような言葉を付している。最後は聚楽第である。天正19年(1591)にアレッサンドロ・ヴァリニャーノは秀吉との謁見に臨んだ。巡察師は大広間の下座に通され、最上段に座る秀吉の面前に進み出てインド副王の書状を捧呈した。その光景をフロイスは「壁には金で幾つかの樹木を描いたもの以外にはなにも見えなかった」と記す(『日本史』第3部15章)。永徳晩年の檜図屛風に通じる巨木表現が、聚楽第の巨大な広間を彩ったのだろう。「内部はすべて金色に輝き、種々の絵画で飾られていた」ともあり、多様な画題が各部屋に描かれたことが推測できる(『日本史』第3部44章)。堺商人・日比屋一族には紙本墨画の枯木図が伝来していた(天正14年(1586)12月15日付アントニオ・プレネスティーノ書翰(注14)、『日本史』第2部79章)。中国の著名な画家が描き、八千クルザード以上の価値をもつとされた本図は日比屋宗清(『松屋名物集』)からその子・宗札に相続された(注15)。だが、天正14年に宗札の弟が宗札の義父(了珪)の兄弟たちを殺害して自死する事件を起こすと日比屋家の財産は没収され、枯木図は秀吉の手に渡った。この枯木図は『宗及茶湯日記』にある天正3年(1575)7月27日宗札主催の茶会に用いられた玉㵎筆と外題のある枯木図と同一作例とされ(注16)、他にも『山上宗二記』に秀吉が所有する玉㵎筆の柳の枯木、『等伯画説』にも玉㵎筆枯木の記載がある。文禄2年(1593)6月10日に秀吉が明使節を招いた名護屋城の茶会でも、玉㵎の枯木図を用いたとされる(小瀬甫庵『太閤記』巻15、大明之使於船入之地秀吉公催船遊事)など関連の記事が散見される。このほか、ヴァリニャーノとリンスホーテンが似た口吻で報じる水墨画がある。前者は「鳥や樹木を墨で描いた紙」が「著名な昔の人の手になるものであると、我等の目には何の価値もないのに」日本人は非常な高値で売買する(『日本諸事要録』第2章)と述べ(注17)、後者も「一本の黒い樹木とか一羽の小鳥を画いた、ある種の書
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