― 565 ―― 565 ―(5)仏画句を添えしめた。ああ、枯木よ、汝を植えしは誰なるぞ。我はその始め無にして、ふたたび無に化するならむ。別の句は、我が心、有にも非ず、非有にも非ず、往くことなく、来ることなく、留められもせず。」祖師像の一種と推測されるが、自然景を背景に師にあたる人物を複数配する図はあまり一般的とは言えない。フロイスはこの記事を1560年6月2日付の日本人修道士ロレンソが豊後に宛てた書翰から引用したようだ(注19)。ケッシュウ(ケンシュウQuenxu)なる禅僧を特定できなかったが、彼はのちにキリスト教に改宗したといい、ロレンソは直接この人物や図に接した可能性がある。『日本史』第1部58章には、司祭一行が大徳寺、鹿苑寺を訪問し、その後立ち寄った一寺院で「かつて天下を治めた、すべての以前の公方たちが生き写しのように描か000000」像を見たとある。寺号が記されないが、鹿苑寺の南に足利将軍家の菩提寺れていたである等持院があり、同寺には木彫の歴代将軍像が現存する。邦訳を素直に読めばフロイスらは肖像画を見たことになるが、彫像の誤りの可能性もあり、原文を確認する必要があるだろう。この記事は永禄8年(1565)のもので、十三代将軍義輝が落命する政変の直前にあたり、ここでいう以前の公方たちとは十二代義晴までである。永禄8年(1565)、奈良を訪れたアルメイダは、興福寺、春日大社を詳報する。興福寺中金堂には「70本を数えるすべての柱および非常に大きくて広い家全体に絵が描かれて」いた(『日本史』第1部60章)と伝える。『七大寺日記』や『興福寺濫觴記』(注20)にも柱絵のことが記載されるが、アルメイダが目にしたのは応永期の再建堂宇であり、情報の少ないこの時期の中金堂内部の絵画に関する希少な記事である。大友宗麟は天正11年(1583)に津久見の地にあった3ヶ寺を接収し、その一つに司祭を住まわせた。そこに厳重に保管されていた什宝に関して興味深い記事がある(『日本史』第2部46章)。その寺宝は「270年前に作成され、当地では前任者から受け継がれて来た」保存状態の良好な紙本金字法華経8巻と、「釈迦の19人の弟子が描かれた」12幅の紙本の掛軸であった。後者に関しては、釈迦如来像、釈迦三尊像、羅漢図などをいかに組合せても12幅という構成には通常ならない。だが、この記事の出典と考えられる1583年年報に含まれた84年1月2日付のフロイス書翰(注21)には「19枚」とあり、誤写の可能性がある。『日本史』によると、この作品全てをコエリョの指示でフロイスが長崎に運び、ゴア行きの船に乗せた。そしてインド管区長の意向次第でローマに送られるよう差配された。この海外移送には、刀剣や扇等の交易品の輸
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