鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
578/688

― 566 ―― 566 ―(6)扇(7)屛風出とは異なる意図があっただろう。フロイスは書翰に、仏僧がこれらの文書を尊重することをイエズス会総長の御覧に入れると記しており、ローマに無事届いたとすればイエズス会文書館に現存するのかもしれない。扇は日本人が男女問わず年中身に着け、僧侶は金扇を持ち歩くとフロイス(『日欧文化比較』1章54、4章30、32)やロドリゲス(『日本教会史』2巻3章)が述べる。扇は日常の装身具であるとともに贈答品でもあった。宣教師たちは日本の習慣に合わせ、永禄8年(1565)正月に足利義輝邸を訪問した際、舶来の献上品のほかに金扇を準備した(『日本史』第1部57章)。足利義昭も元亀2年(1571)に都を離れる布教長フランシスコ・カブラルに餞別として60本の金地扇を贈った(『日本史』第1部95章)。室町幕府が引出物を保管し流用したことが知られるが(注22)、この大量の扇もそのようなものだろう。扇は日明貿易の主力商品だった。ピレスは16世紀初めには、琉球の中継貿易によって日本の扇がマラッカにもたらされていたと証言する(『東方諸国記』第4部2節)。九州に来航する中国船との貿易に従事した京都町衆ヌマヅという法華信徒が、ポルトガル人に売った金扇子から生じた60クルザードもの利益を教会に寄付した話も伝わる(『日本史』第1部102章)。また、『日葡辞書』にはFiugui(檜扇)、Migaqitçuqeno riqin(磨付の両金)、Qinxẽ(金扇)、Sunagono vŏgui(砂の扇)、Vgui nagaxi(扇流し)、Xensu(扇子)など扇に関連する語が複数収録されている。貴人の邸に訪問した宣教師は、しばしば金屛風の存在に言及するが、大半は主題不明である。屛風の画題が多少なりとも推測できる記事を見てみよう。第一に安土城図屛風がある(『日本史』第2部31章)。天正9年(1581)に信長がヴァリニャーニに贈ったこの屛風は先行研究もあり詳述は控えるが、巡察師が「(安土山を)絵画を通じ、シナ、インド、ヨーロッパなどにおいて紹介できるので、他のいかなる品よりも貴重である」と信長に謝意を表したことは興味深い。都や堺などでも公開されたこの屛風は、巡察師の言葉通り、国外でもグレゴリウス13世に贈呈される前に披露される機会があったかもしれない(注23)。豊前国妙見嶽城の田原親盛(宗麟三男)に贈られた六曲の金地屛風には「(非キリ

元のページ  ../index.html#578

このブックを見る