鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 567 ―― 567 ―(1)主題スト教徒が)好む幾つかの淫猥な絵」が描かれていた(『日本史』第2部46章)。親盛はそれを「軽蔑に値する」と評して焼却させてしまった。天正13年(1585)の紀州征伐では、大坂と堺の間に設けられた秀吉の休憩所に「往昔の戦争の史実を描いた金屛風」があった(『日本史』第2部67章)。源平合戦図などとも推測されるが、フロイスは1585年10月1日付書翰で画題を「日本と中国の昔の歴史」と述べており、即断は避けたい(注24)。屛風もヨーロッパへ輸出されていた(『日本教会史』2巻2章)。フロイスは「屛風の幾つかはすでにポルトガルとローマに送られており、毎年インドへ多量に船で積み出される。これらの屛風はすべて黄金塗りで、そこに種々の絵が描かれている」(『日本史』第3部16章)と述べる。マニラの植民地政治で辣腕を振るったモルガも、毎年10月と3月に日本やポルトガルの商人が様々な貨物を携えて来島するとし、商品の一つに「油絵や金箔を置いた上品で立派に枠取りされた屛風」をあげる(『フィリピン諸島誌』8章)。船荷の一部はメキシコへ送られるとも述べており、マニラで消費する小麦などの農産物とは異なり、屛風などの奢侈品は太平洋を渡った可能性が高い。17~18世紀には日本や中国の屛風がガレオン貿易でメキシコへ送られ、首都の富裕層の邸宅に飾られ、輸入品店で販売されていたことが報告されている(注25)。3.西洋主題、技法の絵画舶来の西洋絵画、日本で制作された洋風画に関する文献研究は既に先学によってなされており内容が一部重複するが(注26)、冒頭にあげた文献を丁寧に読むことでこれまで看過されてきた作例も少なからずあることに気づく。中心はやはりキリスト教の聖画である。日本人が西洋絵画に接した早い例として、島津貴久が目にしたザビエル携行の聖母子像(1549年11月5日付鹿児島発ゴア全会友宛フランシスコ・ザビエル書翰)(注27)が有名だが、ザビエルが薩摩国市来の鶴丸城のキリシタンに与えた小さな聖母の画像(『日本史』第1部2章、『日本教会史』3巻14章)(注28)、大村純忠の受洗の場に掲げられた横瀬浦の教会の御恵みの聖母像(『日本史』第1部41章)、四条坊門姥柳町の教会のキリスト像(『日本史』第1部65章、第2部70章)なども確認できる。大阪城下に建てられた教会には救世主像があり、天正14年(1586)に訪問した豊臣秀吉がそれを見て解説を求め(『日本史』第2部75章)、その翌年、細川ガラシャも「とりわけ彼女の眼に美しく映じた救世主の新しい

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