― 46 ―― 46 ―二十日)など、有名事象の証左として断片的に言及されることが多かった。本研究では、阿国による「ややこ踊り」の初出とされる『お湯殿の上の日記』天正九年(1581)九月九日の記事から女歌舞伎が禁止され寛永十七年(1640)に朱雀野に遊里が移転されるまでの期間の記録から阿国と遊女の芸能に関する記事を抽出し年表を作成した。紙面の関係上、年表は掲載できないが、以下の19の一次資料:『お湯殿の上の日記』『多聞院日記』『家忠日記』『言経卿記』『北野社家日記』『時慶記』『当代記』『慶長日件録』『鹿苑日録』『慶長自記』『孝亮宿禰日次記』『言緒卿記』『梅津政景日記』『土御門泰重卿記』『舜旧記』『古老茶話』「近衛信尹書状」「梅図政景書状」「六条柳町三町訴状」から91の記事を検出した(注3)。その結果、阿国の活躍期は、天正九年頃から元和四年(1618)頃と判断する(注4)。阿国の芸に関しては、「ややこ踊り」と「かぶき」の語が上記の一次資料に登場する。「ややこ踊り」は、慶長八年五月六日(『お湯殿の上の日記』・『時慶記』)が最後の記録であるが、それまでの間二十五回記される。「かぶき」は、歌舞伎創始を伝える前出の『当代記』の記事が著名であるが、『当代記』の成立は寛永年間とされるので、同年五月六日の女院御所での記録が一次資料上初出ということになる(『慶長日件録』)(注5)。「念仏踊り」の語は日記等の一次資料に登場しないが、当時京都に居した林羅山(1583-1657)は、著書『徒然草野槌』(元和七年(1621)刊)に阿国の「念仏踊り」を記す。従って、阿国の「念仏踊り」は実際にあったと考えられる。阿国の舞台を伝える有力な資料である京都大学附属図書館『国女歌舞妓絵詞』(以下、京大本)(注6)は、「念仏踊り」で始まるが、演目の中で回顧する形で「かぶき者」と「茶屋のかか」のやりとりと踊り、すなわち「茶屋遊び」をしているのがわかる。すると、「念仏踊り」以前に「茶屋遊び」の芸はできていたと考えられる。以上の分析から、阿国の芸は、「ややこ踊り」→「茶屋遊び」→「念仏踊り」の順で発生したと考えられる。次に、京都での遊女歌舞伎の記録について検討する。上述の『孝亮宿禰日次記』慶長十三年二月二十日が遊女歌舞伎の初出であるが、京都以外では慶長九年三月に「おしほ」という遊女の座が桑名に来た(『慶長自記』)(注7)と記されており、かなり早い段階で歌舞伎が模倣され地方に広まっていたとわかる。慶長九年の京都では、遊女能の記録が四月に北野や御霊御旅所や近衛邸で登場し始め(『時慶記』『慶長日件録』)、元和から寛永にかけて四条河原での遊女能の記録が頻出する。元和元年(1615)五月二十二日付の梅津政景の書状の追而書に、「五条・六条・伏見、辻々町々に、能・歌舞喜・舞数おおく御座候」とあることから、遊女の舞台は四条河原だけでなく、
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