鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 568 ―― 568 ―(2)制作地肖像」を同地で仰いだ(『日本史』第2部106章)。高山右近は「デウスにすがるために一つの肖像」を茶室に置いた(『日本教会史』1巻35章)。これはグレゴリウス13世が1573年に発した勅許により、聖別された教会以外でも「品位ある適切な場所」ならばミサを立てることが許容され、日本では清浄な茶室でミサ典礼を捧げることが可能になったとされることと合わせて理解すべき記述だろう(注29)。名もなき信者の間には、簡易な十字架図が流布していたようだ。天正16年(1588)頃、天草地方で布教を行なったグレゴリオ・フルヴィオは同地のキリシタンが自ら紙に十字架を描いて持っていたといい(『日本史』第2部113章)、五島で活動したジョゼ・フォレナートもペンとインクで十字架を描いて人々に与えたほか、版木を彫って十字架の図を行き渡らせたと記す(『日本史』第2部117章)。世俗画に関する記述は少ない。次項にあげるイタリア図以外には、シュッテ師が独語訳で部分的に紹介した「ローマの都市、教皇のミサと聖体行列の図」(1584年1月15日付イエズス会総長宛てフロイス書翰)や「甲冑姿の武人、野戦や海戦のドローイング」(1578年11月11日豊後発アントニオ・ポッセヴィーノ宛アントニオ・プレネスティーノ書翰)が好まれるという記述(注30)がしばしば引用されるが、書翰全文の紹介が俟たれる。日本で見られた西洋主題の絵画はヨーロッパ製とは限らない。天正遣欧使節は「シナで描かれた大きい図柄のきわめて珍しいイタリアの図」を持ち帰った(『日本史』第3部13章)。アルメイダは豊後朽網や平戸島内の教会にマカオから送られてきた聖像(『日本史』第1部42章)を奉納したが、画像か彫像か定かでない。永禄8年(1565)、福田港から平戸へ向かう船を拿捕した松浦氏家臣の加藤氏は、押収品に「インドからもたらされた非常に厳かな御恩寵の聖母マリア像」を見つけ、落書きし破壊した(『日本史』第1部63章)。フロイスが5万枚もの宗教画や印刷機を依頼し、千枚の聖画を持ってヨーロッパを発ったある神父が日本に着いた時には殆ど手元に残っていなかったと訴え、さらにエヴォラ大司教が日本に送った聖ヒエロニムスの画像がインドに留め置かれたままだと嘆くように(注31)、世界各地で布教活動を行なうイエズス会は聖画を常に必要としていた。ゴアの大司教に仕えたリンスホーテンは『東方案内記』(92章)で現地のポルトガル当局に逮捕されたイギリス人画家ジェイムズ・ストーリーの一件を伝える。ゴアのイエズス会はこの画家を厚遇しようとするが、それは教会装飾を頼みたいがた

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