鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 569 ―― 569 ―(3)日本の洋風画制作めだった。各地でみられた聖画、聖像の不足が、インドやマカオなどでの現地調達を促し、その一部は日本にも輸出されたのである。やがて日本でも洋画制作が始まるが、その記事を次項で見てみよう。日本における洋風画制作は、これまでイエズス会による宣教活動や美術教育との関わりのなかで論じられてきた(注32)。布教草創期には京阪の宣教師や信徒周辺で模写模造、聖具の制作が行なわれ、天正11年(1583)のジョヴァンニ・コーラ来日、同18年の天正遣欧使節帰国による原画や印刷機の到来が画期となり、1590~1610年代の年報、名簿類から窺い知れるセミナリオでの美術教育の充実期へ発展したと理解される。『日本史』の記事もこれを傍証する。永禄6年(1563)、横瀬浦に滞在するコスメ・デ・トルレスは大村純忠に、JESUSの銘と、十字架に三本釘を組み合わせたイエズス会紋章が描かれた金扇を贈る。これは都のヴィレラから送られてきたものであった(『日本史』第1部41章)(注33)。高山飛騨守の沢城の教会には、イエズス会士所有の「ある偉大な芸術家の作になる」キリスト復活の模写が安置され(『日本史』第1部61章)、大友宗麟は洗礼を受けた天正6年(1578)に、カブラルがローマからもたらした救世主像を都の一職人に写させている(『日本史』第2部2章)。『日本史』には、このほかにもキリスト教の意匠を取り入れた冊帖、染織など様々な形状のものが都で制作されていたことを記す。天正10年に長崎を出発した天正遣欧使節が「都にいる最も優れたキリスト教徒なる画家の一人の作にかかる屛風に描かれた救世主像」、「同じ画家の受難のキリスト像」(注34)を携行したことも周知の通りである。コーラは数点の救世主像や聖人像を描いたことが知られるが(注35)、従来看過されがちだった画事が『日本史』第2部85章に記される。天正14年(1586)に完成した被昇天の聖母像は、宗麟が建立した臼杵の新教会に掲げられ、コーラの代表作であったに違いない。当時臼杵は島津軍の侵攻を受けており、この板絵はあまりに大きく重いため臼杵城への避難を断念し、表面を板で覆って保護し、運を天に任せることになった。幸い島津軍による破壊は免れたが、その後教会に宿営した援軍が聖母に鹿の角を描くなどした挙句、太刀で切り裂いてしまった。初期洋風画を取り巻く環境は禁教令を待つまでもなく制作当時から厳しいものだったのだ。八良尾や有家のセミナリオにおける絵画教育に関してはフロイス、ペドロ・ゴメス、フランチェスコ・パシオらによる複数の報告がある。『日本史』にも文禄2年

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