000000がその全身にデウスがみなぎっているある夜のこと人々は庭園で、福者パードレことを示すような、愛に満ちたしぐさをしている姿を見た。彼は、手で胸から長衣を引き離そうとあせっていた。それというのも、その長衣が彼を焼くように燃え、心臓が外へ飛び出そうとしているように思われたからである。彼は「主よ、000000000000000で、もうこれで十分です、十分です」と言った。彼の肖像画は一般にこの時の情景ひとすじの光あるいは輝きが、天から彼に向かって射している。(第3巻8章)― 570 ―― 570 ―(1593)の記事に、学生たちが銅版画、油彩画、水彩画を手がけ、原画と見分けが付かないほど高い習熟度を示すと記され、「今後日本では数々の教会を立派な画像で満たしてくれる人物に事欠くことはないであろうし、多くのキリシタンの殿たちを満足させるであろう」とゴアの画家に通じる期待が述べられている(第3部37章)。4.結びに代えて日本関係欧文文献から16~17世紀の日本で見られた絵画に関する記述を整理した。大半の作品が滅失しているが、現存作品に関わる記事を最後に紹介して結びに代える。聖フランシスコ・ザビエル像(神戸市立博物館蔵)は、オラツィオ・トルセリーノ『ザビエル伝』1596年版掲載の銅版肖像の型に基づくことが知られており、近年、その図像の意味も同『ザビエル伝』第6巻5章や『グレゴリウス15世によって挙行された聖フランシスコ・ザビエルが諡聖の大勅許』によって理解できることが明らかにされた(注36)。これらの史料は、黙想のさなかに神の恩寵に満たされるザビエルの逸話を伝える。それとほぼ同じ内容が『日本教会史』にも記載される(傍点は筆者による)。この一節はセバスティアン・ゴンサルヴェス『イエズス会の歴史の第一部』第3巻20章(1614年脱稿、注37)からの引用とされ、ロドリゲスはその写本をマカオで見たと考えられる(注38)。長年日本宣教の最前線に立った人物がこの逸話を引用していることは重要で、特に3点において注目に値する。第一に肖像画への言及である。ゴンサルヴェスはこの場面に基づく肖像がマヌエル・テイシェイラ、トルセリーノ、ジョアン・デ・ルセナの先行するザビエル伝に掲載されていると詳解し、ロドリゲスはそれを省略したが、肖像画のくだりを残したのは画像を認識していたためではないか。第二に、ロドリゲスはザビエルを「福者パードレ」のまま引用した。ザビエルは
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