鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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研 究 者: 東京文化財研究所アソシエイトフェロー 成城大学大学院 文学研究科 博士課程後期  野 城 今日子1955年(昭和30)、原爆投下10年を記念して長崎県平和公園に設置された《平和祈念像》〔図1〕(以下、本作と称す)は、当時すでに彫刻界の大家であった彫刻家、北村西望(1884−1987年)によって制作された。本作は、額に白毫を呈し、左腕を横方向へ垂直に伸ばす形を表す。右腕は上に延ばされ、人差し指で天を指す。右脚は台座の上に乗せ、左脚は、大腿部の内側が正面を向くほどに大きく開脚しており、左足が地山の上に乗る。したがって、半跏趺坐に近い形を表す。また、左肩からは帯状の布が垂下しており、左布の端は右脚の下に敷かれる形を表す。なお、この帯状の布は背面において左肩から右腰まで渡る形を呈する。このように、本作は、白毫と半跏趺坐が表され、衣のような布をまとうなど仏像風の様相がみうけられる。現在までに本作は、戦後に代表されるモニュメントとして語られる一方で(注1)、先行研究では大きくふたつの視点で議論が展開されてきた。まず、小田原のどか氏編集の『彫刻の問題』(注2)や『彫刻1』(注3)などに代表されるような、市民感情やジェンダー論に寄り添い、現在的な視点から本作の是非そのものを問う研究がひとつある。ふたつ目に、石崎尚氏や新木武志氏の研究にみられるような、当時の時代背景や作者の作風などを整理し、本作の意図を検討した歴史的視点からの研究が行われてきた。新木氏の研究では、本作の依頼主である長崎市が、原子爆弾の被害自体を観光資源として活用しようとした社会的背景を論じている。そして、新たな観光地の目玉として考案されたのが本作であったことを明らかにした(注4)。石崎氏の研究では、本作を北村の浦島シリーズと関連付け、浦島が持つ「玉手箱」が「原子爆弾」の比喩であることを指摘している。そして、鬼が玉手箱のようなものを投げる姿を表している《人類の危機》(1958年)と本作が対であることを示唆し、北村が本作を原子爆弾の脅威から人々を守る存在として表した可能性を示した(注5)。しかしながら、本作は先に確認したように、白毫や衣のようなものが表され、仏像を彷彿とさせる独特な形を有しており、その理由については、これまで検討はされていないと考えられる。報告書は、完成作の受容について明らかにすることを目標としているが、まず本作が戦後の「社会」に与えた影響を考える前段階として、北村「個人」が考えていた本 北村西望作《平和祈念像》にみる記念碑の戦後― 574 ―― 574 ―

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