鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 575 ―― 575 ―作の意図について考えたい。つまり、この仏像風ともいえる本作の造形によって北村は何を表したかったのか、再考する必要があると考える。本報告書では、そのうちの戦前の北村の活動や、北村が影響を受けたと考えられる仏教思想について考察する。1.北村西望について北村西望は、1884年(明治17)に長崎県南高来郡南有馬村白木野名字宮ノ木場(現、南島原市)に生まれた。父の陳連と自身の名について、西望は自叙伝『百歳のかたつむり』において以下のように述べている。 父は西本願寺派浄土真宗の信者であった。別にどこの寺から派遣されるとか、どこの寺に属すとかいうのではなく、自分流に発心〔ママ〕して、村の家々を回って経を上げたり、法座を開いたりして、念仏行者のようなことをしていた。 そんな信仰があったからか、私が生まれると西にし望もと名付けた。この名は、浄土真宗の教義が説く西方の極楽浄土を望むというほどの意味である(注6)。このように、陳連は浄土真宗の在家信者であり、西望の名もその影響を受けたものであることが語られている。陳連は手先が器用であったことから金工を得意としており、神輿や仏具、欄干の金具などを制作していたという(注7)。1900年(明治33)、北村は有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員として勤務するようになる。1902年(明治35)に正職員を目指して長崎師範学校に入学するが、体調を崩して数か月で退学となった。この体調不良の期間に、陳連が新築した隠居所の欄間制作を行い、《雲に龍》や《葦に鴈》、《城に雲》を完成させる。この作品制作を通して「彫りもの」に興味を持つようになったという。その後、小学校準教員として復帰するも、翌年には京都市美術工芸学校(現、京都市立芸術大学)に入学し、本格的に彫刻について就学することになる。ここで重要なのは、北村が、父・陳連の影響から浄土真宗に親しみがあり、宮大工になることを目指して当初は「彫りもの」を学んでいたことである。この時代、北村が「彫刻家は宮大工の仲間で」あったと述べているように(注8)、西洋彫刻は一般的に知られるものではなく、多くの人々は宮大工や仏師を彫刻家と認識していた。京都市美術工芸学校において、当時の新しい彫刻表現であった塑像を知った北村は、東京美術学校彫刻科に1907年(明治40)に入学し、さらに塑像について学ぶこととなる。以後、北村は塑像の分野で知られるようになるが、その活動の根底には、仏教へ

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