鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
588/688

― 576 ―― 576 ―の信仰や仏教美術への関心があったことは留意すべきであろう。次章では、東京美術学校卒業後の北村と仏教の関係性について述べる。2.曠原社と仏教教育と田端の芸術家ネットワーク先述したように北村は、父からの影響で幼い頃から浄土真宗に親しみがあった。ただし、『百歳のかたつむり』には、自身の信仰について、そして仏教思想については特に触れられていない。本章では、北村と仏教との関りを語る上で重要だと思われる、曠原社に注目する。曠原社と仏教教育の関係性を述べながら、北村が仏教をどのようにとらえていたのかを検討したい。北村は、東京美術学校卒業後、文展に出品を重ね、1915年(大正4)に《怒濤》が特選となる。そして、1921年(大正10)に東京美術学校彫刻科塑像部の教授となった。同校では、京都時代からの盟友であった建畠大夢と、すでに彫刻界の重鎮となっていた朝倉文夫が同僚であった。その後、翌年12月に建畠とともに彫刻家の団体、曠原社を創立する。北村は、曠原社の回想において、その設立の大きな目的を、当時彫刻界で一大勢力を築いていた朝倉文夫に対抗することであったと述べている。そして宣言文を一部抜粋し、「あらゆる芸術は、個性の燃焼から生まれる。人格の光から生まれる。これは芸術即人格とする人格主義芸術の立場だ。人格主義芸術はわれ等の立場である」と述べている。そして、宣言文では「技巧よりも精神性」を重んじる旨と、芸術の社会性にも触れているという(注9)。この「技巧」という言葉は、技術的な修練を重要視していた朝倉文夫を意識したものであったと考えられる。また、同社のメンバーも特徴的であり、北村の17歳年上である山本瑞雲や、弟子の三木宗策、澤田政廣、そして米原雲海の門下生である戸田海笛や林玄海などの名が確認できる。さらに、この時期に仏像に関しての興味を深めていた池田勇八や、高村光雲門下の関野聖雲も在籍していたという。このように、曠原社の多くは、仏像に精通するものたちであったと考えらえる(注10)。ただし北村は、ただ単に反朝倉派の仏師たちを集めて派閥を作ったわけではない。曠原社の活動の特徴は、展覧会開催の他に、1923年(大正12)に児童彫塑展を行っていることだ(注11)。また、アトリエを5室備えた研究所(注12)を滝野川町西ヶ原(現、東京都北区滝野川西ヶ原)に建設し、アトリエを持ち合わせていない若手彫刻家のために開放した。アトリエ開放や児童彫塑展など実践的な活動を打ち出したが、同年9月1日の関東大震災の被害を受けて解散をしたと述べている。なお、同社は社

元のページ  ../index.html#588

このブックを見る