鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 577 ―― 577 ―団法人化していたため、しばらく存続していたようであるが、実質的な活動期間はわずか1年ほどであった(注13)。同社の出品目録やパンフレットなどが現存していないため、その活動実態は現在不明な部分が多い。しかし、同社の人選とその活動から、同社創設の目的がただ単に朝倉を意識したものではないことは明白である。曠原社における北村の目的を考えるには、より視野を広げ、同時期の芸術家たちが仏教教育に関して興味を抱き、それぞれの分野で教育団体を立ち上げていることを確認する必要がある。大正期、明治時代まで僧侶に対して行われていた仏教教育を一般市民に広げる活動が、一部の文化人や芸術家たちによっておこなわれた。例えば、大正期の文芸界においては、児童文芸雑誌の『赤い鳥』(1918年、赤い鳥社)や『金の船』(1919年、1921年から『金の星』)が刊行されたが、同時期に大日本仏教コドモ会からも『金の塔』(1921年)が刊行されている。『金の船』において初代編集長を務め、同紙に「七つの子」、『金の塔』において「シャボン玉」などの童謡作品を発表した野口雨情は、キリスト教の讃美歌を仏教にも展開させた讃仏歌に深く関わった人物である。讃仏歌は、仏教教育の学びの場であった日曜学校で歌われ、仏教の教義をより一般社会へ浸透させるために活用された。そして、野口を中心に仏讃歌集が編纂され、大正から昭和初期かけて大きく発展を遂げたという(注14)。近代仏教は、文芸と音楽の分野で、その普及活動に新たな展開をみせていた。そして、美術の分野では、山本鼎が1919年(大正8)に農民美術運動と児童自由画教育運動を立ち上げている。金子一夫氏は、山本が国柱会に傾倒していた可能性を指摘し、その教義との関係性を示唆している(注15)。このように、仏教と芸術と児童教育は、密接な関係にあったといえる。そして、なにより興味深いのは、大正期において、山本鼎、倉田白羊、吉田白嶺ら農民美術運動の関係者と、國方林三、池田勇八などの曠原社の関係者、そして讃仏歌を主導した野口雨情が、曠原社の滝野川町からほど近い田端周辺に居をかまえていたことである(注16)。つまり、この仏教をベースにした児童教育は、絵画、彫刻、文芸、音楽と分野を超えて、現在の北区田端周辺に居住していた芸術家によって同時期に発展を遂げたといえる。これは、単なる偶然とはいいがたいことであり、曠原社の活動は、この流れのなかで語るべきだと考える。この仏教教育と児童教育を結びついて普及していく形は、先ほど述べた讃仏歌が最も早く発展をしているとみられるが、そこには北村が幼い頃から信仰していた浄土真宗の存在が確認できる。東道人氏の研究によると、1893年(明治26)に『法ノ道イロ

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