鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 47 ―― 47 ―京都の所々に見られたと思われる。京博本の芸態とその位置付け阿国の活躍期と芸の変遷の順が判明したところで、京博本阿国の芸態の位置付けを試みる。まず、芸の変遷を絵画作品で辿る。対象は、阿国の活躍期から懸隔しない慶長期~元和期の作と考えられる次の作品中の図像に絞る:出光本阿国〔図3〕、京大本-阿国a〔図4〕、京博本阿国〔図1〕、京博本R阿国〔図5〕、堺市博本阿国〔図6〕(注8)、京大本-阿国b〔図7〕。これらのうち、出光本阿国、京大本-阿国a、京博本阿国、京博本R阿国は「茶屋遊び」の「かぶき者」である。出光本阿国と京大本-阿国aは腕を組み、片足に重心をかけ少し傾いて立ち、頭巾と覆面を着け目だけを出す。京博本阿国と京博本R阿国は、小袖に袖なし胴服を重ね着て、刀を肩に担ぎ、開いた扇を持ったもう一方の手を前に出すポーズである。捌髪に鉢巻きであることから、『かふきのさうし』が伝える「風呂上がりのまなび」の芸態と考えられる(注9)。芸態としては、頭巾・覆面が先行し、捌髪に鉢巻きは後から加えられたと判断できよう(注10)。堺市博本阿国と京大本-阿国bは、黒塗笠を被り、撞木と鉦を手にするので(堺市博本阿国の左手は剝落しているが鉦を持つと想像される)、「念仏踊り」の姿である。次に各芸の発生時期を上述の一次資料から推定する。既に見たように慶長八年五月六日の資料に「かぶき」が初出するが、その日が初演とは考え難く、むしろ、それまでに成立し人口に膾炙していたと考えるべきであろう。山科言経(1543-1611)は、天正十六年(1588)二月十六日に、秀吉の御伽衆であった大村由己(1536-1596)に早朝粥に呼ばれ出向いたところ、「出雲大社女神子」が「神哥」や「小哥」に合わせて舞ったのを見たと記録した(『言経卿記』)。出雲大社の女神子の名乗りから芸人は阿国であったと考えられる。阿国の座は神歌や小歌に合わせて踊る芸が中心であり、それ故「ややこ踊り」と呼ばれたのかもしれない。それから約七年後、言経は、文禄四年(1595)六月十三日条に「江戸黄門へ罷向ヤヤコヲトリ、狂言等有之、見物了」と記し、徳川秀忠が居する伏見城で「ややこ踊り」だけでなく「狂言等」も見物したのである。狂言が加わっていたことは、その三年後の『お湯殿の上の日記』慶長三年(1598)五月二十四日条に、「けふもやヽこおとりあり。いろ々のきやうけんもまいらす」とあることからもわかる。この頃は、京都で南都の狂言師の活躍が目立つようになり天皇からも所望されている(注11)。阿国の座もそういった狂言師を取り入れて新たな狂言(寸劇)を演目に加えていったのではないだろうか。そうった寸劇が「茶屋遊び」の萌芽となったと推測する。従って「茶屋遊び」

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