― 579 ―― 579 ―おそらく、北村や山本といった美術関係者は、田端の芸術家による何らかのネットワークで讃仏歌の動向を知りえたのではないか。西洋音楽を仏教にも応用した讃仏歌や、それに関わる野口の童謡が一般社会に溶け込む様相は、美術関係者からは手本となるものであったと考えられる。したがって、仏師による団体で児童彫塑展をおこなうということは、北村にとって彫刻を用いて仏教の教義をより社会に広めるための手段であったように考えられる。曠原社の児童彫塑展は1923年7月6日から10日まで上野竹の台美術協会にて行われたが、その際、曠原社の朝蔭其明は、以下のように述べている。 兒童芸術文化普及の声が高まるにつれて、童話・童謡・童話劇、自由画といつたような塩梅に、兒童に対する大人のそうした方向の注意が、いろ〵〳な形式を取つて現れ、兒童の芸術的精神を保育、涵養しやうとする、真面目な試み、意義ある運動が、近ごろ、著しく盛んになつて来た。 一体、我等が諸種の運動を起して、兒童に芸術教育を普及せんと努力する所以は、単に兒童の芸術的精神の保育に資せんとする、兒童本位の仕事とのみ見る事は出来ない。大人の眼は屢々理智の爲に雲を生じてゐるものである、兒童の作品を見ることによつて我等は、雲つた眼を洗ひ、忘れられてあつた自己の本体を見る事が出来るのである(注20)。ここで朝蔭は、最初に他の分野の活動にも揺れながら、子どもの作品を通して大人も「自己の本体見る事が出来る」と述べている。これは、野口が「童心」を大人の中からも見出そうとする姿と重なる。この他にも子どもの作品を鑑賞することで、子どもとその保護者の置かれている社会環境を見直すことができると述べ、「絵画よりも更に深刻なる芸術真味を有する」と語っている。また、山本鼎も児童自由画展の公募の際、自由画を「お手本や、雑誌の画なんか見て、描いたものではない書画のことです。君たちがかつてに描いた画のことです」と述べており(注21)、田端周辺の芸術家たちは、技量ではなく、精神性を重んじ、作品により純粋な「童心」(仏心)の表現を求めていることがうかがえる。当時の一部の芸術家たちは、自分たちの活動を通し、仏教徒としての信仰の姿勢を示しているのではないか。曠原社解散後も、北村の仏教美術への興味は尽きず、1928年(昭和3)8月26日には藝苑巡礼社にて田中一松、正木直彦、橘川霊華らと共に鎌倉へ赴き、建長寺、鎌倉
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