鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴『日本美術全集19 拡張する戦後美術』2015年 小学館 235頁⑵白川昌生 金井直 小田原のどか『彫刻の問題』2017年 トポフィル⑶小田原のどか編著『彫刻1』2018年 トポフィル⑷新木武志「長崎の戦災復興事業と平和祈念像建設─長崎の経済界と原爆被災者」『原爆文学研― 580 ―― 580 ―国宝館、延命寺をまわり仏教美術について造詣を深めている。その日、北村は延命寺の《裸形地蔵》を鑑賞した。『藝苑巡礼』には、その時の様子を「北村西望氏等は何故に国宝に指定しないのかと不審がられてゐる」と記録されている(注22)。また、1936年(昭和11)には建畠、関野、吉田三郎とともに奥多摩を訪れ、金御嶽神社と小河内神社の仏像を見学している(注23)。そこで関野は、金御嶽神社の木造の聖観音菩薩像などを「感じのまゝ、有のまゝ刀を進めたもので」あるとし、子どもの絵や彫刻に通じる「自由な気持ちの製作」がうかがえると評価している。そして、「禅坊主の悟りの様な気持の芸術」とも述べていることは興味深い。また、今回の助成で実現した柳澤飛鳥氏(彫刻家、元・北村のアシスタント)へのインタビューでは、禅宗の僧侶でもあった山本活道がアシスタントとして戦後の北村のアトリエで仕事をしていたことが明らかとなった(注24)。このように、常に北村の周囲には仏教に精通する人物がいたと考えられる。3.まとめ本報告書は、《平和祈念像》と北村西望の仏教信仰について整理した。北村は、曠原社において仏教の教義をより一般的に広めることを目的としていたと考えられる。特に、子どもや大人の心の中にある「童心」(仏心)を表した彫刻を作る、あるいは鑑賞すること理想としていたのではないか。そして、多くの仏教美術関係者と交流を持ち、自身で仏教について思考を深めたと考えられる。北村が考案した本作のポーズに関しても、既存の様式とは全く異なるポーズをあえて採用した理由に、「童心」(仏心)が深く関係しているように思える。この部分は、より時間をかけて慎重に考察していきたい。今後は、この北村の仏教信仰を軸に、造形論へ発展させ、北村が戦後、本作において示したかったことを明らかにしたい。そして、北村の「個人」意図と「社会」の解釈にどれだけの齟齬があったのかを詳細に検討していく。究』14号 2015年 181-204頁⑸石崎尚「北村西望と平和祈念像」『引込線2013』2013年 39-59頁

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