― 584 ―― 584 ―一.朝鮮洋画界のオーソリティー1931年9月2日付の「画房の秋」という記事では、山田について「(朝鮮)洋畫界のオーソリイチイである」と紹介している(注2)。1923年から終戦の1945年まで朝鮮の画壇で大変な権威を築き上げた山田は、1899年5月22日、当時台湾総督府の民政部官を務めていた父・新助と母・茂樹の3人兄弟の長男として生まれた。1918年から1923年まで、東京美術学校(以下、美校と略記する)の西洋画科で藤島武二らに師事した山田が朝鮮に渡ったのは1923年のことである。同年9月に関東大震災が起こり、東京では制作活動を続けられないと判断した山田は、両親が暮らしていた朝鮮に移ることに決めたのである(注3)。こうしてほんの腰かけのつもりであった朝鮮滞在は終戦まで続き、フランスに留学した2年間(1928~1929)を除いては継続して朝鮮で活動を行い、朝鮮画壇を代表する洋画家として確固とした名声を得た。朝鮮では、朝鮮人向けの中等教育機関で図画教師を務める傍ら、朝鮮美術展覧会(以下、朝鮮美展と略記する)に出品を重ねた。山田は、朝鮮に渡った翌年の1924年、第3回の朝鮮美展に《金魚とリラ》と《花と裸婦》を出品し、三等賞を受賞して朝鮮画壇に華々しくデビューを飾っている〔図1〕。当時、開設3年に過ぎなかった朝鮮美展は「鮮展自身も未だ未成品であり、多数の出品者も矢張未成品」の状態であった(注4)。「未成品」の若い画家を完成の行路へ導く「巨匠役たる画家」の存在が必要であった同展において、日本の官学出身である若手画家の出現は、注目を集めるに十分であったに違いない。それ以降、山田は同展で9回も連続して特選となっている。当時25歳であった山田が、朝鮮に移って5年も経たないうちに有望な青年画家として注目され画壇における地位を確立したのは、もちろん彼の優れた芸術性とも関係があるだろうが、それに加えて同氏が美校の出身という事実も大きく影響したと考えられる。それは、朝鮮における山田の活動ぶりを見ても分かるだろう。例えば、本格的な洋画専門機関であった「朝鮮美術協会」を設立し、その指導と研究を担当したのは、山田を含めて日吉守や遠田運雄など美校出身の画家たちであった。この3人は朝鮮美展の花形画家としても名を馳せており、朝鮮の洋画界はいわゆる美校系の芸術家が主軸となって営まれていたと言えるだろう。このように、発展途上の朝鮮近代画壇において、内地で「正式に」美術を学んでから朝鮮に移住した者には、朝鮮に生まれ育った日本人画家とは異なる使命が与えられた。山田をはじめとする美校出身の画家たちは、画壇で絶対なる主導権を握ると同時に、内地画壇との連帯を呼びかけながら「正統な」洋画を朝鮮に普及し、画壇を啓発する責務を担わざるを得なかったのである。一言でいうと、在朝美術家の間には、朝
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