― 587 ―― 587 ―ローカリズム」は、朝鮮画壇における洋画の「普遍性」を確保しようとする山田の目標とも深く関わっていたと思われる。ここで「普遍性」とは、日本の近代洋画を基準としたものであり、具体的には美校を中心に確立された穏健な写実主義的傾向のアカデミズム様式を指すだろうが、特に山田による「滿洲美術展覽會の崩壊、臺灣美術展覽會の紛擾、共に好個の前徴であります。他方大展覽會に於いては、土地から審査委員を出すことによつて、必ず紛擾し、腐敗し崩壊する」という話は(注15)、「普遍性」の意味を理解する手掛かりとなるだろう。例えば、同時代の台湾では、審査員全員が内地から招聘されていた朝鮮美展とは違って台湾居留の画家も審査に加わっており、石川欽一郎や鹽月桃甫等の在台日本人画家たちを中心に、台湾独自の造形様式とローカルカラーが確立されつつあった(注16)〔図5〕。一方、内地審査員の中には、植民地の画家を中心に形成された「南国の色彩」について、地方性の表現に囚われたあまり普遍性に欠けてしまったと言いながら、違和感を表明する人も少なくなかったと言われる(注17)。内地の画家たちによるこのような指摘は、山田の「反ローカリズム」とも相通じるところがあるように見える。つまり、地方特有のカラーの表現においても、日本の美的観念に基づいた「普遍的」な美感と造形性を具える必要があり、未だ内地画壇の弟分か孫分の子供に過ぎない植民地画壇は、内地の巨匠たちに指導を受けて美術の標準を身につけなければならないとのことなのである(注18)。山田のこのような考え方は、彼の朝鮮美展の出品作にも顕著に現れる〔図6〕。山田は、同展に初出品する1924年から一貫して西洋人の外見をした優麗な女性像を出品し続けており、これは朝鮮洋画界のもう一人の巨匠である遠田運雄が、専ら朝鮮の風俗習慣を描いた絵を出品していたことときっかりと区別される〔図7〕。山田が第17回の朝鮮美展に出品した《丹装》に登場するチマチョゴリを纏った女性も、朝鮮独特の装束を表すために描かれた題材というよりは、女性たちの日常の断片をつかみ、その理想的な美しさを具現するためのモチーフとして描かれたものと言える〔図8〕。このように、山田は朝鮮色の表現に先立って画壇におけるアカデミズムを定着させ、基礎的な技術を練磨することの重要性を訴えた。山田は「我々の大いに尊敬し渇仰する第一流の大家を迎えて、より高き指導精神を示して貰ふのが良い」と述べ(注19)、内地画壇との緊密な連帯を通して美術の標準を確立し、絵画の「普遍性」を兼ね備えるようなものを目指した。彼は、朝鮮美展の審査員を歴任した恩師たちに絶対的な信頼を置いており、朝鮮画壇の段階的な発展及び、同画壇を資する後進の育成に大きな責任感を持っていたに違いない。「朝鮮のものが、みんな繪筆に親しむやうに
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