鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 48 ―― 48 ―の芸は文禄四年~慶長三年頃に発生したと考えたい。当初の「茶屋遊び」の「かぶき者」は、京都の町なかをたむろする傾きたる男たちの異相風俗の一部をまねて、頭巾や覆面を着けたのであろう。それらを取りさり、顔を見せる「風呂上がりのまなび」は、当初から演目の最後にアンコールとして演じていたのか、それとも後に加えたのか。後に加えたとしたらそれはいつ頃か。ここでは、後に加えたと仮定して論を進める。前述のように慶長九年には遊女歌舞伎や遊女能が既に一次資料に現れていて、人気であったことがわかる。一方、『慶長自記』慶長九年十月の記事によると、「津嶋もりくにかぶきて清州へ下る。上りがけ十月二十三日桑名につき、同二十七日より勧進五日するなり。…かふきの開山にて天下一のよし申候へども、一日二日見候ものは、何も見あき申候、毎日同じ事斗を致たる故、人の見あき候も尤もニ候」とあり、阿国の歌舞伎が見飽きられていたと伝える。ここで言う「見飽き候」とは、毎日同じ芸を見せていることに対してである。この時までに、捌髪に鉢巻き「風呂上がりのまなび」の芸態が既に加えられていて、それを含んだ演目の繰り返しに客は食傷した可能性もある。または、「風呂上がりのまなび」の芸態が加えられる前の演目に対して客の倦怠が顕在化し、加えて遊女芸団台頭もあり、阿国は注目を取り戻すために「風呂上がりのまなび」を新機軸として打ち出した可能性も否定できない。そこで、以前に筆者は同芸態を「慶長九年末頃に加えた」としたが(前掲注⑵)、少なくとも慶長九年末までに加えたのではないかと変更したい。最後に、「念仏踊り」の芸の開始時期を検討する。慶長十七年(1612)四月十三日に女院御所で「終日」歌舞伎があった(『言緒卿記』)。御所での歌舞伎は、記録上では慶長八年以来九年ぶりである。これが阿国であるという確証はないが、女院が「終日」見物するほどとなると、幼少の頃から目をかけていた阿国と考えてよいのではないだろうか。阿国の芸を、「終日」見入った女院の渇望ぶりが想像される。その渇きを癒すには、まず従来の「ややこ踊り」や「茶屋遊び」を見せて女院の懐旧の情を喚起したであろうが、それだけで「終日」女院の目を飽きさせずにいられたとは考えにくい。この時、新しい芸である「念仏踊り」を披露したのではないだろうか。なぜ、新芸を制作したのだろうか。慶長十年三月には遊女浮舟が御所で能を披露し(『時慶記』、『慶長日件録』、『言経卿記』)、慶長十三年二月には四条河原での大規模遊女歌舞伎が記録されている(『孝亮宿禰日次記』)。阿国の「念仏踊り」は、遊女芸団進出に対し、自分こそ常に新しい芸を提供する者であるというプライドから生まれたのではないだろうか。したがって、「念仏踊り」が始められたのは慶長十三年~十七年の頃と判断する。

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