― 588 ―― 588 ―なれば、それは朝鮮美術界の一つの權威とも考へられ(中略)然うしてこそ、始めてローカルの問題も論じられよう」という山田の言葉には(注20)、彼が朝鮮画壇で担っていた役割と同氏が構想していた画壇の開発の方向性が窺われる。結び:帝国と植民地の「架け橋」今まで朝鮮郷土色は、①日本の一地方として朝鮮を認識し、その地方性や原始性を視覚的に表すことによって朝鮮に対する日本の統治を正当化しようとする内地の審査員、②民族自決や民族的アイデンティティーを表明する手段として朝鮮の郷土を描く朝鮮人画家、③内地画壇と区別される芸術的な独自性を保とうとする在朝日本人画家という3つの立場に分けて、それぞれの意義や限界が論じられてきた。このような中で、山田の「反ローカリズム」は、上記のいずれにも該当しない主張として、ローカルカラー及び在朝日本人の自己同一性に対する異なる視点を提示してくれる。山田が、朝鮮画壇の急務として、先に絵画の基礎知識をしっかり身につけ、大衆とともに絵を楽しむ基盤を築くことを提唱したのは、内地でオーソドックスな美術教育を受けてから「藝術的無風帯」の朝鮮に移り(注21)、遅れた洋画壇を開墾する役目を担った者による、極めて現実的な判断であったと思われる。また、それは中央官展の様式を地方官展に下向きに示達し、官展システムを通じて内地と外地の画壇を有機的に結びつける仲裁者の役割をもって任じた彼の自己認識とも関係があっただろう。同氏は、日本と朝鮮の両画壇の「架け橋」として日々活躍しながら、その中で両画壇における自分の地歩を築いていった。「鮮展は、只に朝鮮の鮮展たるのみでなく全日本文化の一角に嚴然たる存在たり得るものと思ふ」という文面には(注22)、朝鮮画壇に対する山田の認識が読み取れる。歴史学者のUchida Junは、山田のような類型の日本人を指して「帝国のブローカー」と呼んでいる。当初は個人的な利益を求めて朝鮮に移住した者でも、同地における活動は必然的に日本の国家的利益、すなわち帝国の建設と密接な関係を持ちながら行われていたのである(注23)。「帝国のブローカー」として誰よりも旺盛な活動を行い、多くの成果を上げた山田の立場は、自らを「周縁の画家」と見なしながら劣等感を抱き、只管に内地画壇からの独立を望んでいた彼以外の在朝日本人画家たちと明確な違いを見せている。山田の芸術家としての信念と帝国臣民としての使命感が交差する地点に「反ローカリズム」は芽生えており、ローカルカラーの芸術性やその社会的な意味をめぐる芸術家たちの意見差、在朝日本人たちのそれぞれ異なる立ち位置及び朝鮮認識を投影して
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