注⑴金周英「在朝鮮日本人画家と植民地画壇」『韓国近代美術と視覚文化』造形教育、2002年、284頁。⑵「畫房の春─山田新一氏」『京城日報』1931年9月2日。⑶当時、山田の父親は朝鮮や満州のあたりで材木関係の事業を営んでいた。山田新一『素顔の佐 山田新一「里見勝藏君の人及び藝術(下)」『京城日報』1938年4月19日。 山田新一「鮮展所感」『京城日報』1939年6月18日。 Jun Uchida, Brokers of Empire: Japanese Settler Colonialism in Korea, 1876-1945, Cambridge, Mass:Harvard University Asia Center, 2011.― 589 ―― 589 ―いる。今や日本近代美術史においては忘れ去られ、等閑に付される多様な類型の在朝日本人画家の存在と活動を復元することによって、今来民族間の「支配と抵抗」や「強圧と同意」など固着した構造から論じられてきた植民地画壇の問題を、より複合的な視点から捉え直すことができると思われる。伯祐三』中央公論美術出版、1980年97頁。⑷多田生「鮮展洋画評」『朝鮮』第88号、1922年7月、4頁。⑸金炫淑「古代への憧憬と朝鮮風俗画の復興」『日韓近代美術家のまなざし─『朝鮮』で描く』展図録、神奈川県立近代美術館葉山ほか、2015~2016年、56頁。⑹李美那「日韓近代美術─二重星を超えて」『日韓近代美術家のまなざし─『朝鮮』で描く』展図録、神奈川県立近代美術館葉山ほか、2015~2016年、281~282頁。⑺金周英、前掲注⑴、286~287頁。⑻山田新一「鮮展の西洋畫」『朝鮮及満州』第331号、1935年6月、51頁。⑼同上。⑽山田新一「大衆と共に繪に親しむ─鮮展“常連”に聴く 鮮展よ何處へゆく」『朝鮮日日新聞』1934年4月16日。⑾「鮮展を前に(1)希望・不満」『京城日報』、1934年4月12日。⑿荒井龍男「畫家待望─鮮展“常連”に聴く 鮮展よ何處へゆく」『朝鮮日日新聞』1934年4月16日。⒀山田新一「鮮展第二部の水準『朝鮮』1939年7月、18頁;山田新一「鮮展の洋畫(一)」『朝鮮新聞』1939年6月5日。⒁「釜山美術界に光彩─寶水町の藤澤俊一氏 見事鮮展に特選さる」『釜山日報』、1939年6月2日。⒂山田新一「第十二回鮮展を觀て」『朝鮮及満洲』第307号、1933年6月、53頁。⒃文貞姫『モダン・混成─東アジアの近現代美術』韓国美術研究所、2012年、258~263、272~276頁。⒄廖瑾瑗著、李淑珠訳「台湾近代画壇の「ローカルカラー」─「台湾美術展覧会」東洋画部を中心に」『芸術/葛藤の現場─近代日本芸術思想のコンテクスト』晃洋書房、2002年、202頁。⒅山田新一「第十六回鮮展評─鮮展の感想」『朝鮮及満洲』第355号、1937年6月、84頁。⒆山田新一「鮮展洋画への希望」『朝鮮及満州』第379号、1939年6月、51頁。⒇山田新一「大衆と共に繪に親しむ─鮮展“常連”に聴く 鮮展よ何處へゆく」『朝鮮日日新聞』1934年4月16日。
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