鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 593 ―― 593 ―像である。これまで、OPL写本の等身大の磔刑図のキリストが血を流すことは確認していたが、小さな磔刑像のキリストが血を流すことは認識していなかった。2015年に大英図書館のハーレー写本(Harley 1526, 1527)を調査したが、残念ながらハーレー写本の磔刑像のキリストの血潮は、その写本の状態から、薄れて見えにくくなっていたため、認識できなかった。今回、久しぶりに調査が許されたオックスフォードのボドレイアン図書館のBodley 270bは余白部分がかなり傷んだフォリオがあるものの、中央の絵の部分の保存状態は良く、複数のフォリオの磔刑像のキリストの血潮が噴き出すように流れる表現を再発見して改めて驚いた〔図2〕。このことを踏まえて、再度大英図書館を訪れ、ハーレー写本を確認したところ、消えたり、薄れたりして見えにくくなっているものの、ハーレー写本の磔刑像のキリストからも血汐が流れていることが確認できた。また、初めて許可を得てパリのフランス国立図書館のLatin 11560を調査したが、これはOPL写本の中で最も保存状態の良いものだが、その磔刑像のキリストからも同様に血潮が噴き出すように流れ出ていることが確認できた。なぜ、小さな磔刑像のキリストが血を流すような表現を制作者はわざわざしたのであろうか。第4コンスタンチノープル会議(870年)の規定では、既に権威があるものとして認められていた福音書と十字架のように聖画像を尊敬することが求められている(注5)。イコノクラスム論争などを経て、キリスト教イメージとして2次元の絵画やイコンは公に認められることになっていたが、3次元のキリスト磔刑像は10世紀末ごろに現れ(注6)、12世紀初頭ごろには複数の西方の教会に存在したようである。新しいキリスト教イメージである、未だ不確かな3次元のキリスト磔刑像の正当性を証明するような奇跡が11世紀の歴史家によって報告されている。ケルンの大司教ゲロはあるとき、磔刑像のキリストの頭の部分にひびがあることに気づいた。彼は聖別した聖餐のパンでそのひびに触れたところ、直ちにそのひびは閉じてなくなった。ジャン=クロード・シュミットはこの奇跡を磔刑像の正当性を示すだけでなく、イメージの中にキリストの実在を保証し、キリスト磔刑像が真のキリストの体(Corpus Christi)に他ならない、奇跡のイメージであることを示したものと評価している(注7)。また、12世紀の著作に『彼の回心についての小品』(Opsculum de sua conversione、以下、Opusculum)というものがある(注8)。これは時の有名な神学者、ドイツ(Deutz)のルペルトゥスとユダヤ人の青年ユダ・ヘルマンがキリスト教とユダヤ教の立場でキリスト磔刑像を中心とするキリスト教美術の正当性を論争するものである。当初、ユダは磔刑像を「怪物のような偶像」(monstruosum quoddam ydolum)と呼ぶが(注9)、ルペルトゥスとの論争の後に彼はキリスト教への改宗に導かれた。磔刑像は偶像なの

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