鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 604 ―― 604 ―(2)目録作成(1)時期区分(2)明治10年代にかけて「楊洲周延論・同錦絵目録<未定稿>」をもとに、未掲載の錦絵を追加し目録を更新した。その結果、2020年5月時点で1,530点の作品がリストアップされた(注6)。画題別に分類したところ、美人画が651点と最も多く全体の4割を占める。その他は〔表1〕の通りである。現在確認されている最初期の作例は、二代芳鶴と号する文久2年(1862)の役者絵とされる(注7)。以降、明治42年(1909)頃にかけて、その作画時期は45年以上に及ぶ。年単位で刊行点数をみると西南戦争錦絵を制作した明治10年(1877)が多いが、明治17-19年(1884-86)、明治22-23年(1889-90)、明治27-31年(1894-98)と数年おきに点数が増加する時期がある〔表2〕。2 画業について周延の画業について、先行研究ではいくつかの時期区分が提示されてきた。まず、千頭氏は明確な年代は示していないものの、画業を前中後期に分け、前期は西南戦争錦絵を制作した明治10年頃、後期は『真美人』を残した明治30年代頃としている(注8)。つづいて悳俊彦氏は、明治14年(1881)頃までを第一期、明治15年(1882)から30年(1897)頃までを第二期、代表作『時代かがみ』、『真美人』以降を第三期としている(注9)。また鈴木浩平氏は、明治20年(1887)以降の画業を「周延美人の誕生、洋装の官女と江戸美人」、明治30年以降を「代表作『真美人』から晩年の活動と肉筆画の制作」と位置付けて紹介している(注10)。こうした先学の分類では、晩年を『真美人』の制作された明治30年代と捉える点が共通する一方で、明治10-20年代の捉え方には幅がある。前章で確認した、刊行点数の増加する「明治17-19年」「明治22-23年」「明治27-31年」という時期は、周延が活動の幅を広げた重要な転機であったと考える。そこで、この三つの時期を中心に周延の活動内容を掘り下げ、画歴の把握や制作背景の考察を試みる。前述のとおり最初期の作例は文久2年とされているが、「周延」と名乗ってからは、師国周の錦絵に人物や景色を描き入れた慶應3年(1867)の作例が初期のものとされている。翌明治元年(1868)版『歳盛記』の絵師番付には、29人中28番目に周延の名

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