鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 605 ―― 605 ―(3)明治17-19年が掲載され、下位ではあるが、絵師としての活動が緒に就いたことが公に示された(上位は貞秀、芳虎、芳幾、芳年、国周である)。しかし番付が出された当時、周延は画業を一旦休止し、高田藩江戸詰の藩士たちによる神木隊の隊士として、旧幕府軍とともに戊辰戦争に参戦している。その後、東京に戻ってから初めての仕事は、明治8年(1875)の「東京両国橋真景」とされる(注11)。明治9年(1876)には明治天皇の巡幸など、皇室をテーマにした数点を制作(注12)。明治10年の西南戦争時には、100点を超える戦争錦絵を残し、いよいよ絵師としての活動が本格化した。西南戦争錦絵以降も、皇室に関する画題には引き続き取り組んでおり、各地への巡幸の様子や、官女たちの日常を取り上げた御所絵を手がけた。また役者絵は画業を通して取り組んだものの、明治11-18年(1878-85)の作が全体の8割弱を占める。作風は「明治の写楽」とも称された師国周に倣いビビッドな大首絵に仕上げられているが、コーツ氏は周延の役者絵は国周に比べて背景描写に工夫があることを指摘(注13)。周延の役者絵についてはここでは詳述しないが、遠近感を与える画面構成や背景の描き込みに工夫がみられることから、この時期の周延は、国周に学びつつも自身の画風を模索していたことがうかがえる。さて、こうした流れを経て明治17-19年に刊行点数が増加する。その背景には歴史画の揃物を2作手がけたことがある。明治16-17年(1883-84)に『名誉色咲分』で遊女絵の揃物に取り組んだ後、同じ版元の小林鉄次郎より『雪月花』(明治17-19年)、『東錦昼夜競』(明治19年)という50図揃のシリーズを続けて制作したのである。この時期の浮世絵界では、芳年の『大日本名将鑑』(明治11-15年、51図)や『芳年武者无類』(明治16-19年、33図)、国周の『現時五十四情』(明治17年、54図)などの揃物があり、枚数としてはそれらに匹敵する。ここで、周延の初期を代表する揃物として『雪月花』に注目したい。「雪月花 近江 石山秋の月 紫式部」〔図1〕や「雪月花 山城 伏見雪 常盤御前 乙若 牛若 今若」など、地名と「雪」「月」「花」のいずれかを組み合わせ、それらにちなんだ歴史上の人物や名所、故事、伝説が描かれる。こうした作品が制作された背景には、明治10年代に「歴史画」の出版が流行したことが挙げられる(注14)。しかしながら、芳年の『大日本名将鑑』や清親の『日本外史之内』など先行する歴史画は、画中に歴史上の人物の略伝が記され、いわゆる「正史」を意識した内容とされる(注15)一方で、『雪月花』には異なる趣向がみられる。

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