― 606 ―― 606 ―(4)明治22-23年例えば、武者絵のような猛々しい描写よりも、美人画や風俗画に寄った穏やかな描写がなされている(注16)。また史実を伝えるということよりも、江戸期から描かれてきた画題を「雪月花」という文学的な要素を通して物語ることを主眼としている。版元の着想も考慮すべきではあるが、役者絵と同様に、周延が独自の作風を模索していた様子がうかがえる。こうしたテーマ設定は、翌年より月にまつわる主題を描いてヒット作となった芳年の『月百姿』(明治18-25年)に類似するもの、あるいは先行するものともいえまいか。岩切友里子氏は「つき百姿 宮路山の月 師長」〔図2〕より「雪月花 尾張 宮路山月 大政大臣師長 水神」〔図3〕の方が早くに同じ画題を扱っていることを指摘する(注17)。異なる揃物だが、周延筆「東絵昼夜競 小野小町」の月を見上げる卒塔婆小町も、その後に刊行された芳年の「月百姿 卒都婆の月」と近似する。芳年は『月百姿』を制作するにあたり多様なイメージ源を取り入れたとされ、また主題選択には『大日本名将鑑』とは異なる江戸への回帰も指摘されている。この当時の浮世絵界の筆頭ともいえる芳年の作風変化に何らかの関与があるとすれば、周延作品の重要性が浮かび上がる。このほか明治19年には、清親や芳年ら人気絵師とともに『教導立志基』に参加し、2図を担当した。岩切信一郎氏は、18年のシリーズ当初の目録には周延の名が無く、途中から参加したことを指摘する(注18)。奇しくも芳年が4図のみで離脱した時期と入れ替わるように周延が登場しており、あるいはその穴を埋めるために起用されたと想定することもできよう。明治18年『東京流行細見記』の錦絵番付では11位に浮上しており(1位は芳年)、この頃には周延が浮世絵師たちのなかで一定の位置を確立していたことがわかる。明治20年代前半の周延は、主に二つの重要なテーマに取り組んでいる。一つは、大日本帝国憲法の公布や帝国議会の開催、西洋文化の流入といった時事を報道する錦絵である。ことに西洋化というテーマでは、明治19年に皇后が洋服の着用を開始したことが契機となり、描写内容が明確に変わってゆく。同年4月刊行の「学校生徒体操ノ図」では和服を着用していた皇后が、11月「チヤリネ 大曲馬御遊覧ノ図」では洋装で描かれると、翌20年よりこの時期の周延を特徴づける「明治美人風俗三枚続」と呼ばれる(注19)一連の美人画のなかで、ドレス姿の女性たちが輝かしく描かれるようになっ
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