鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
619/688

― 607 ―― 607 ―(5)明治27-31年た〔図4〕。だが洋装の女性像は、明治22年の憲法発布式の描写をピークに徐々に落ち着いてゆき、明治22年の『東風俗福つくし』、同年7月「御遊覧御休憩之図」〔図5〕などでは、再び和装の女性像が主流となる。こうした動きのなか、二つ目の重要なテーマである、「江戸」に関する作品が如実に増加する。明治22-23年頃には「江戸風俗 朧春花之夜桜」〔図6〕や『江戸風俗十二ヶ月之内』で、過ぎ去った江戸の女性像が主題となっている。また、直接的に江戸幕府を描いた『温故東の花』(明治21-22年)〔図7〕や『松乃栄』(明治22年)のほか、江戸文学の世界を蘇らせた『馬琴著述』(明治23-25年)なども出版される。鈴木氏は、この時期に江戸風俗の女性像が増えることに着目し、二つの背景を指摘している。一つは、明治22年に上野公園で「江戸開府三百年祭」という祝典が開かれるなど、欧化政策への反動から江戸回顧の機運が高まったことである(注20)。もう一つは、明治5年(1872)の娼妓解放令以降、美人画の中心的画題であった遊女の描写が減少したことである。従来の題材からの変更が求められたことで、江戸時代の女性風俗が好まれるようになった可能性を示している(注21)。この頃、周延が美人画の絵師として広く認識されていたことは、度々言及される明治23年11月30日『読売新聞』掲載の「歌川派画工の専門」の記事からもうかがえる。歌川派絵師とその得意分野が列挙されるこの記事で、「官女は周延」と記されているのである。ただ、これまでさほど注目されていないものの、周延は前述のように女性像だけでなく大名や武士の群像も生み出していることから、美人画の問題にとどまらず、旧幕臣を中心に高まっていた江戸回顧の風潮が、江戸画題を描く強い動機となったと考えられる。以上のことから、明治22-23年頃の周延は、明治政府の動向から江戸回顧の風潮まで、世間の関心を巧みに捉えたことで購買者の支持を得て、作品数を増やしたといえる。ちなみに、20年代中頃以降は『幻燈写心競』(明治23-25年)、『二十四孝見立画合』(明治23-24年)、『日本名女咄』(明治26-27年)、『見立十二支』(明治26-27年)、「女礼式」関連作品など、美人画や母子絵ともいえるジャンルに多数取り組み、一部は当時の女子教育を意識した画題であることも注目される。明治27年に日清戦争が起こると、周延も再び戦争錦絵の出版で多忙となり、以降作

元のページ  ../index.html#619

このブックを見る