― 50 ―― 50 ―クに踊るものと推測する。また、上記別稿にて、MOA本の遊女歌舞伎の興行場所は清水寺の門前通りを下った先にある五条河原東岸の小屋と判断した。五条河原が四条河原に先立つ芸能興行地であったことは先学によって既に指摘されており(注17)、近世初期の洛中洛外図などに小屋が描かれていることからも首肯される。その中でも、景観年代が慶長末年とされる舟木本には、五条河原と四条河原の両方に女「かぶき」の小屋が描かれ、興行地が五条河原から四条河原へと移っていく過渡期の状況を示すとされる(注18)。五条橋東詰北側に位置する小屋は脇座無しの方二間の舞台と見える(京間一間は約2m)。一方、四条河原の小屋の舞台は脇座が付いていることと、脇座に並行して建てられている桟敷の桁行が三間になっていることから、舞台の規模は少なくとも方三間となっていると考えられ、舞台が大きくなっていることを示す。五条橋東詰の遊女歌舞伎を描くと拙論で判断したMOA本の舞台は脇座無しの舞台である。舞台の規模が小さいのは先駆者である阿国歌舞伎の模倣であったためと、五条河原の地は五条橋の橋脚が立つため小屋として広い場所を確保できなかったからであろう。芸能興行地が四条河原に完全に移った以降の様子を描くとされる堂本家本や静嘉堂文庫美術館本の「四条河原遊楽図」中の遊女歌舞伎は、輪舞や楽器演奏の場面を描き舞台上に描かれる人数も増加している。堂本家本の第二扇上方の遊女歌舞伎の舞台では、5人の「かぶき者」が輪になって歩み、そこへ左後方からもう1人の「かぶき者」が歩み寄り、これから輪に加わる様子である(注19)。右奥に座る「茶屋のかか」の前で、輪の中の1人が体をねじり「茶屋のかか」の方に振り返っている。よく見ると、立てた刀に腕を乗せ凭れているので、そこで歩みを止めポーズを決めているとわかり、「茶屋のかか」との何らかの有機的関係を示唆する。後座では大鼓と小鼓が演奏中である一方、舞台に置かれた太鼓に奏者が見えない。堂本家本の「茶屋遊び」は、複数の「かぶき者」が大小の鼓演奏をバックにして練り歩く踊り(又は舞)的要素と、「茶屋のかか」との演劇的な要素の両方があるのではないだろうか。さて、MOA本に目を戻すと、刀に凭れる「かぶき者」-イは腰を振って踊り、その前には「茶屋のかか」が座っている。MOA本「かぶき者」-イのような「かぶき者」の人数を徐々に増やしていき、「茶屋のかか」の前でポーズを取るという芸態が生まれ、四条河原の大きな舞台を得て、堂本家本に描かれるような舞台に発展していったのではないだろうか。
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