― 608 ―― 608 ―品数を増やしてゆく。この時期に制作された作品が、今日最も高く評価されており、ことに『千代田の大奥』(明治27-29年)、『時代かがみ』(明治29-30年)、『真美人』(明治30-31年)が特筆される。前述のように、先行研究では晩年を『真美人』の制作された明治30年以降と捉える傾向にあったが、本稿では少し遡り明治27年(1894)を転機と捉えたい。〔表2〕からもわかるように、戦争報道により出版界がにわかに賑わったこの年、『千代田の大奥』や『徳川時代貴婦人』(明治27-31年)の刊行がはじまり、『時代かがみ』や『真美人』、『千代田の御表』(明治30年)、『名勝美人会』(明治30-31年)、『竹のひと節』(明治30-31年)、『江戸錦』(明治35-38年)、『幼稚苑』(明治38年)といった重要な揃物が次々と刊行されたからである。この時期には時事画題はほぼ見られなくなり、美人画や江戸回顧作品が主流となっている。この時期の作風変化について、コーツ氏は、1880年代には史実に正確な描写に関心が置かれていたのに対し、1890年代中頃の描写はより非現実的で、ノスタルジアの反映となっていると指摘する(注22)。確かに『千代田の大奥』〔図8〕では、明治20年代前半の江戸回顧作品と比べ明らかに背景描写が簡略化され、幻想的ともいえる淡い色彩が用いられていることがわかる。もっともこの時期は尾形月耕や水野年方を筆頭に、淡い色彩による瀟洒な作風が主流となっており、錦絵界全体の傾向でもあった。『時代かがみ』〔図9〕や『真美人』ではこうした色彩の変化に加え、彫と摺にそれまでにない繊細さがみられ、木版画としての完成度の高さが追求されていることが注目される。一方で、描かれる内容については正確さを手放しているわけではない。これまでの研究では『千代田の大奥』について、「美人画に秀で、特に徳川大奥の風俗を描くことを得意としたのは彼がその方の出であつたことによるらしい(注23)」などと紹介され、やや漠然と彼の出自や見聞してきたことに着想源を探る傾向にあったが、これは鈴木氏が周延の御家人説を訂正したことに伴い見直されている。近年では、『千代田の大奥』の典拠として『朝野叢書 千代田城大奥』(朝野新聞社、明治25年刊)の存在が、アン・ウォルソール氏や新藤茂氏により指摘された(注24)。また『時代かがみ』の場合も、山東京山『歴世女装考』(弘化4年刊)や山東京伝『骨董集』(文化11-12年刊)を用い、時代考証を行いながらモチーフを描き入れている(注25)。資料を参照しながら下絵を制作する実証的な姿勢がみられるのである。したがって明治27年から30年代にかけての活動は、出版資料への取材を基にしながら、新たな色彩、入念な彫摺など、木版画としての可能性を追求したことに特徴が見出せる。こうした制作が可能となった背景には、日清戦争時に出版界が賑わったこと、
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