― 615 ―― 615 ―〈晨朝〉度などから、概ね源信の作、そうでなくとも周辺の同時代作と考えられている。11世紀前半に成立していたと考えられる『栄華物語』「たまのうてな」にひかれ、鳥羽院周辺の造形根拠となっている点から、院政期にはよく知られ、源信作と考えられていた可能性が高い。鎌倉時代には、法然門下の浄土僧である長西(1184~1266)が著した仏教典籍目録である、いわゆる『長西録』(『依憑経論章疏目録』(注4))に源信筆として記録されており、源信作『極楽六時讃』が法然門下の浄土僧の周辺で唱和されていたことも知られる(注5)。よって厨子の成立した鎌倉時代には『極楽六時讃』は源信筆と認識され、この厨子絵が描かれたと考えられる。新長谷寺の厨子絵は、阿弥陀如来立像を安置する厨子に描かれる。厨子は四面とも外に開く構造で、正面以外の三方の扉の内側に『極楽六時讃』を典拠とした極楽浄土の六時の情景が、正面扉の内側には二十三菩薩の来迎が、漆地に白色顔料を下地とした上に、濃彩と金銀によって描かれる。扉の外側は、黒漆地に蓮弁が散るさまが金蒔絵で表されている。これは仁治3年(1242)に造られた當麻曼荼羅厨子扉(奈良・當麻寺所蔵、国宝)と同趣向といえる。扉に二十三菩薩が描かれることからも分かるように、厨子内部にはもともと阿弥陀三尊が安置されていたとみられ、床面にはそれらしき痕跡が残る。製作年代は絵画を含めた厨子、阿弥陀如来立像とも鎌倉時代の13世紀半ば頃と考えられる。厨子扉は縦長の板を側面では各3枚、正面・奥では各4枚用いて構成される。極楽浄土が描かれるのは正面を除いた都合10枚の板であるが、情景は、およそ縦140.5cm、横27.3cmまたは24.2cmの縦長の1枚ごとに区切って描かれ、1枚にいくつかの場面を描き込む。画中の色紙形には『極楽六時讃』が引用される。平田寛氏によって色紙形と『六時讃』本文との対応が明らかにされ、板の並び順が当初から入れ替わっている可能性が高いことがすでに指摘されており、本来は向かって右から奥、そして左へと順に、晨朝から後夜に至る六時の様子が描かれていたと考えられる。筆者も同意見であるので、ここでは本来の順序によって10面を確認していくことにしたい(注6)。3 極楽六時讃の図像晨朝は、現状向かって右側面扉の3枚の板に表されているが、左端と右端の2枚が入れ替わって本来の順となる(以下、左右の表記については向かって左右を指すものとする)。色紙形に書き込まれている『極楽六時讃』本文は以下の通り(注7)。第1面「薬師瑠璃光仏/浄瑠璃浄土至/先日光月光/二人大士値遇」
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