注⑴MOA本に描かれる芸能が遊女歌舞伎とされるのは、小屋の櫓幕に描かれた桔梗紋が、静嘉堂文庫美術館「四条河原遊楽図」中の遊女歌舞伎の西洞院道喜座の桔梗紋と一致すると考えられるからである。― 51 ―― 51 ―おわりに以上の検討をまとめると、阿国の「茶屋遊び」の芸は文禄四年~慶長三年頃に発生し、慶長九年末までに京博本に描かれるような「風呂上がりのまなび」の芸態を加えた。MOA本の舞踏性の強い遊女歌舞伎は、五条河原にまだ遊女歌舞伎の小屋があった慶長末年以前の芸態と考えたい。慶長~寛永期中頃までの風俗画で遊女歌舞伎の図像を含んだ作品を見ると、初期の阿国のような覆面・頭巾を着ける「かぶき者」や、それに続く捌髪に鉢巻きの「風呂上がりのまなび」姿もない。阿国は、当世傾きたる男たちの風俗を基に作りあげた「かぶき者」に、さらに流行の風呂屋帰りの風俗を加えた。つまり、当性風俗を敏感に意識し舞踊演劇化を志したのである。一方で、客を魅惑する「張見世」機能を期待された遊女歌舞伎では、容貌の美しさが重要であったため、当世風を表現するために髪を振り乱し捌髪になるようなことはせず、幻惑的な夢の世界を目指したのであった。⑵拙稿「京都国立博物館蔵「阿国歌舞伎図屏風に描かれた人々」『美術史』第179冊、美術史学会、2015。⑶作成した年表は、「女歌舞伎関連記録」と題し、博士論文「女歌舞伎図の研究」(早稲田大学大学院文学研究科、2020年2月25日学位取得)に所収した。⑷『土御門泰重卿記』、『言緒卿記』、『孝亮宿禰日次記』の元和四年十月七日条に御所で歌舞伎(資料中の表記はカブキ、歌舞妓)があり、後水尾天皇の叡覧も記されている。この歌舞伎が阿国によるものという証はないが、これ以降禁中での歌舞伎の記録はない。その二年後の元和六年に、阿国幼少からのパトロンであった女院新上東門院が薨去していることを考慮すると、その後記録に現れないのは、元和四年から間もなくして阿国は引退または死去したのではないだろうか。⑸同日の『お湯殿の上の日記』・『時慶記』は、同じ芸を指して「ややこおとり」と記している。⑹京大本の制作年代は、慶長十七年頃~元和初頭とされる。奥平俊六『カブキモノと初期歌舞伎の図像研究』平成17年~19年科学研究費補助金基盤研究研究成果報告書、2008を参照した。⑺「おしほというかふき来る。勧進はせず」とあるので、来たが興行はしなかった。⑻この図像が阿国と考えられるのは、貼り札(現在は別途保管)に「くにかふき」とあるからである。⑼『かふきのさうし』(松竹大谷図書館)に「ふろあかりのまなひをして、かみをはつとみたし、ひたいのなかをむすとゆひ」とある。⑽『かふきのさうし』に、演目の最後にアンコールとして再び舞台に登場した時に「風呂上がり
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