鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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⒂ 「此比、荊組皮袴組とて、徒者京都充満、(中略)荊組とは人に喧嘩をかくるに依て也、皮袴組とは、荊にも劣さるとの儀也」とあり、京都に荊組・皮袴組と呼ばれるいたずら者があふれていたことがわかる。― 52 ―― 52 ―⑾ 近衛信尹筆『三藐院記』天正十九年十二月八日条によると、後陽成天皇が信尹に命じてトッパ⑿ 唄方の歌い手は、歌う時にのみ扇子を手にし、歌っていない間は扇を下ろし床などに置く。⒀ 囃子方の後方に女たちが並ぶが、唄方であれば囃子方の右横に並ぶのが普通であるので、唄方⒁ 拙稿「MOA美術館蔵「清水寺遊楽図屏風」に関する一考察」『MUSEUM』680号、東京国立博⒃ 「京町人北野賀茂邊え出行之砌は、かぶき〈当世異相を此云〉衆出合たはふれ、為之悩さる、其上耽女色」(〈〉内は割注)とあり、当時、人々が北野や鴨川辺りの遊楽地に出かけてみると、異相のかぶき者たちにからまれ、しかも彼らは女といちゃつきけしからぬ有様であったという。⒄ 守屋毅『「かぶき」の時代─近世初期風俗画の世界─』角川書店、1976、小笠原恭子『出雲の⒅ 奥平俊六『洛中洛外図 舟木本─町のにぎわいが聞こえる』小学館、2001。⒆ 堂本家本「四条河原遊楽図」の遊女歌舞伎の図像は『四条河原』近世風俗図譜第五巻、小学館、のまなび」をしたとあることから、捌髪に鉢巻きの芸態は後から加えられたと判断した。という南都の狂言師呼び寄せたとある。ではないと考えられる。また右端の男は笛を懐に入れているので唄方ではない。物館、2019。おくに その時代と芸能』中央公論社、1984など。1982にて確認できる。

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