― 644 ―― 644 ―(1)祈りの境界2、さまざまな祈りの表象上記の個人研究から徐々に明らかになっているのは、ブルターニュの祈りの体系をあくまで「部分」と捉え、他の文化圏のそれとの総和をもって見立てた「全体」との相関関係を絶えず検討する必要性である。確かに「子宝祈願」「戦勝祈願」「弔い」といった祈念は古今東西に存在するものの、その表象方法は各文化圏で著しく異なり、比較考察の意義を見出すのは必ずしも容易ではない。ただし、どの文化圏であれ「祈り」という行為が創唱宗教の教義よりも、むしろ自然発生的な民間信仰に依拠する場合が多いという事実を踏まえれば、ある文化圏における祈念表象の生成論理が、全く異なった祈りの体系をもつと見なされてきた他の文化圏のそれにつながっている可能性は否めない。じっさい、報告者は東アジアの「冥婚」という風習を考慮することによって、長く未解明のままにあった「キリスト教図像」が、非業の死を遂げた者の弔いの表象をなしていることを明らかにするに至った。以上の見地から個々の事例の成り立ちと、それぞれの繋がりを更に幅広く検討する中で、壮大な「祈りの体系」が立ち現れる蓋然性は極めて高いように思われる。そのため報告者は今後、様々な分野・領域・文化圏の研究者に協力をお願いし、リレー講演会「祈りのかたち」や、分野横断的研究事業「部分と全体─国際日本学を拓く」、そして国際シンポジウム《祈りを結ぶ─モノから辿る祈りのかたち》を実施することを計画している。その準備として、今回はパリとブロワの美術館・博物館を訪れ、以下3つの主題に従って異なる時代、分野、媒体の「祈りのかたち」を学ぶことを目指した。祈念における自己と他者の境界は必ずしも明瞭ではない。西欧中世では煉獄の誕生以来、亡者の魂に対する救済の祈りが盛んに行われるようになったが、そのための祈祷文は祈祷者自身の地獄行きを逃れるためにも日常的に使用されていた。また、非業の死を遂げた者への祈りが、生者である祈祷者の平安を目的としている場合もある。同じく一族の繁栄に対する願いへとつながるはずの子宝祈願が、祈祷者自身の境遇の安泰を願うものであったりする。いっぽう祈念表象におけるあの世とこの世の境界が必ずしも定かではないことは、「家族の肖像」に描かれた男児が、誕生を希われる世継ぎを表すものでも、その早世に対する弔いの表象をなすものでもあり得たことに確認できる。《犯罪と裁き》展(於:ジャン無畏公の塔)でパネル展示されていた様々な中世末
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