鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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― 645 ―― 645 ―(2)祈りの性別(3)祈りの中の時間期の図像は、中世の日常生活にみられた犯罪行為の表象が宗教的なコンテクストにも度々見出されること、つまりは聖と俗の著しい混淆を示しており、今後、祈念表象の多様なありようを宗教書以外にも検討する意義が窺えた。いっぽう18世紀のカルメル会修道女の日常生活と、その信仰のありようを伝える信心用具(ポール・エリュアール芸術歴史博物館)や、第一次世界大戦中に弾殻や薬莢を利用して作られた磔刑像、そして戦場でミサを行うための司祭の携帯用祭壇(宗教芸術博物館)は、個人の祈りと共同体の祈りの差異についても検討する必要性を示唆するものであった。中世末期に多数制作された時祷書は多くの婦女子が所有するものであったため、当時の女性の社会的立場や具体的な境遇を知るための貴重な史料とされてきた。ただし、女性が注文・所有した作例と男性から女性に贈られたもの、あるいは男性が注文主兼所有主である写本の比較検討からは、各々の祈念表象の成り立ち・目的に性差があることが既に明らかとなっている。時祷書における戦勝祈願や子宝祈願の表象は、そのことを明示するものであるが、妊産婦の護符(《ルネサンス時代の子供たち》展、ブロワ城)や、結婚契約書(《イタリアのユダヤ写本》展、ユダヤ芸術歴史博物館)は、写本のみならず様々なモノや、それに対する人類学的な研究成果を踏まえることで、祈りにおける性別の問題を今日的なジェンダーの問題にとどめず、新たな生命を生み出す2つの性という視座から考察する意義を窺わせた。祈りを具現化した様々なモノは、注文・制作されてから現代の我々の目に触れるまで、意味や機能を著しく変化させている。時祷書に認められる祈念表象は、親族の歴史として継承される場合もあれば、その当初の意味が後世の写本所有主によって変容されたり、新たな祈念表象が挿入されている場合もある。祈りの場に建立されてから王家の墓所となり、破壊、修復を経て現代にその姿を残すサン・ドニ大聖堂(《サン・ドニ大聖堂の甦る輝き》展)や、文脈は異なるものの《聾者たちの静なる歴史─中世から現代まで》展(パンテオン)、そして《五感─「貴婦人と一角獣」の反響》展(クリュニー美術館)では、「しるし」や「かたち」が表すものと、それによって表されるものの関係が不変ではなく、不均衡でもあることが確認できたため、当初の文脈を離れゆく祈念表象の変遷史を長期的・多角的に捉えることが新たな課題となった。以上の成果を発展・深化させながら、様々な事業に結実させる予定である。

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