― 59 ―― 59 ―2.「彦火々出見尊絵巻」と「八幡縁起絵巻」に図像面での類似が認められない理由では、なぜ両絵巻は、その中の複数のエピソードにおいて強い類似性が認められるにもかかわらず、その図像には類似するものがほとんど見出されないのであろうか。「八幡縁起絵巻」の中でも甲類諸本は、シンプルな構図、限定された数のモチーフ、そして素朴な作風を特徴とする作例がほとんどであり、鑑賞性よりも効率よく生産することを重視して制作されたものと思われるため、そこに後白河院周辺での成立が想定される「彦火々出見尊絵巻」との類似点が認められないのは、ある程度予想されることであった。ただ、乙類は、永享5年(1433)に足利義教が誉田八幡宮・石清水八幡宮・宇佐八幡宮にそれぞれ奉納した絵巻が原初本であると目される系統であり、このうち唯一現存するのが誉田八幡宮本、すなわち「神功皇后縁起絵巻」である。義教は絵巻の収集・鑑賞に強い執着を見せていたことが知られ、これらの絵巻を制作させるに当たっては、何らかの権威ある先行作例が参照されるのが自然であったであろう(注7)。この時、「彦火々出見尊絵巻」の図様が参照可能な状態にあったならば、これが乙類に採り入れられることもあり得たと考えられるが、実際にはそうはならなかった。その理由として考えられるのは、結局のところ、「神功皇后縁起絵巻」の制作が企図された当時、義教や絵師たちは「彦火々出見尊絵巻」の図様を参照することが困難な状況にあったということである。「彦火々出見尊絵巻」の原本は、後白河院周辺で12世紀後半に制作されたと考えられているが、本絵巻が文献史料上に初めて現れるのは制作から3世紀近く下る、伏見宮貞成親王の日記『看聞日記』嘉吉元年(1441)4月26日条においてである(注8)。本記事によると、当時若狭の松永庄新八幡宮に「彦火々出見尊絵巻」・「吉備大臣入唐絵巻」・「伴大納言絵巻」がともに伝来していたといい、貞成親王はこれらを京都まで召し寄せて披見したという。なお、この時にこれらの絵巻の模写がなされたという記録はないが、親王が制作に関与したと目される「福富草紙」では、「彦火々出見尊絵巻」や「伴大納言絵巻」で用いられる構図法を摂取したと思われる画面構成が複数場面において見られる(注9)。すなわち、絵巻の収集・披見に傾倒していた貞成親王にとって、「彦火々出見尊絵巻」は参照すべき規範的な絵巻と判断され、その図様が手元に蓄えられ、折に触れて利用されたのだと推測されるが、もし義教が本絵巻を披見する機会を持っていたならば、貞成親王と同様の判断を下したものと想像される。しかし、義教は若狭に移されていた本絵巻の存在を知る術を持たず、それゆえに「神功皇后縁起絵巻」を制作するに当たって、これを参照することは叶わなかったということであろう。
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