― 60 ―― 60 ―3.「神功皇后縁起絵巻」で用いられる図像の源泉前章までの考察により、つまるところ「彦火々出見尊絵巻」は参照困難な環境に置かれていたため、「八幡縁起絵巻」乙類の制作時にその図様が採り入れられることはなかったという推測が導かれた。これにより、図像テキストの伝播は文学テキストの伝播に比べて大きな制約を伴うことが実例をもって示されたといえようが、ただ、それだけでは本研究の目的が十分に達せられたとはいい難い。そこで本章では、「八幡縁起絵巻」乙類の初発的作例の一つである「神功皇后縁起絵巻」の画面が「彦火々出見尊絵巻」以外のいかなる作品を参照して構成されたのか、下記の二つの場面につき、本稿の執筆に至る調査の過程で考察したところを述べる。本研究の当初の趣旨を若干離れるのだが、「八幡縁起絵巻」の図様形成に関する議論に少しでも資するところがあればと思う。下巻第1段 神功皇后が新羅の地で戦勝の碑文を刻む場面本場面には、神功皇后の軍勢が新羅国に上陸するところ、神功皇后が新羅国の官人たちの前で戦勝の碑文を刻むところ、新羅国の宮殿の中から人々が出てくるところが長尺の画面に描かれる。ここでは本場面のうち、新羅国の宮殿楼門の前で神功皇后を拝して恭順の意を示す新羅国の官人たちの図像に注目したい〔図8〕。本場面について神山登氏は、応永21年(1414)に制作された清凉寺本「融通念仏縁起絵巻」下巻第8段の閻魔王庁からの蘇生譚の場面との間にモチーフの類似が見られることを指摘する(注10)。すなわち、閻魔王庁の建物と本場面の新羅国の宮殿、閻魔に仕える官人たちが被る幞頭の形と本場面の官人たちが被る幞頭の形が類似するとし、また、閻魔王庁から蘇生した女のもとに駆けよる子供のしぐさが本場面の宮殿内に見える童子の姿と酷似すると指摘するのである。神山氏による指摘は首肯し得るものであり、様式面や細部の形式の面で本場面と近い例を探すと、清凉寺本「融通念仏縁起絵巻」の当該場面に至ることになるだろう。ただ、図像の面からいうと、より近いものが一時代前の作品の中に見出される。例えば、「融通念仏縁起絵巻」の現存作例の中でも、正和3年(1314)成立の原本に最も近いとされるシカゴ美術館・クリーブランド美術館分蔵本(14世紀)のうち、クリーブランド美術館本第10段では、清凉寺本にも描かれていた閻魔王庁からの蘇生譚が描かれるが、ここでは閻魔王庁に引き出された女が融通念仏の結縁者であったことを知った閻魔王庁の官人たちが女を伏し拝む様が描かれている〔図9〕。これらのモチーフを本場面のモチーフと比較すると、腰をかがめて笏を執る閻魔王や、合掌して
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