鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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注⑴現存する5本の模本が小松茂美『彦火々出見尊絵巻の研究』東京美術、1974年にて紹介されて― 63 ―― 63 ―今後の課題としておきたい。いる。⑵田中水萌「八幡縁起絵巻諸本の所在とその相違点」『美術史論集』15号、2015年、137-154頁では、計49本の作例が紹介されている。⑶阿部泰郎氏は国文学の立場から、八幡縁起の物語は『日本書紀』中の彦火々出見尊の物語を神功皇后伝承の文脈に移し替えたものとの見解を示している。同「八幡縁起と中世日本紀」『現代思想』20巻4号、1992年、76-87頁。⑷苫名悠「《彦火々出見尊絵巻》に見られる名所絵的性格とその意義」『日本宗教文化史研究』21巻2号、2017年、68-88頁。⑸宮次男「八幡大菩薩御縁起と八幡宮縁起」上・中・下・附載1・附載2『美術研究』333・335・336・339・340号、1985年~1987年。⑹明通寺本制作の経緯については、注⑴前掲小松氏著書に詳しい。⑺『看聞日記』永享3年(1431)7月1日条、同永享7年(1435)7月8日条によると、「神功皇后縁起絵巻」等に先行する「八幡縁起絵巻」が存在していたことが知られ、神山登氏は義教が「神功皇后縁起絵巻」等を制作するに際してこれらの絵巻を参照した可能性を提示する。ただし、その図様は一切不明であるため、本稿ではひとまず検討の対象から措く。同「解説」『絵巻物集 羽曳野市史文化財編別冊』羽曳野市、1991年。⑻同記事の該当部分は下記の通りである(『図書寮叢刊 看聞日記六』宮内庁書陵部、2012年より引用)。 なお、井並林太郎氏は1240年代前半に若狭国新八幡宮に「彦火々出見尊絵巻」原本が移された可能性を提示する。同「若狭国鎮守神人絵系図─修理報告を踏まえて─」『学叢』39号、2017年、19-44頁。⑼苫名悠「《福富草紙》における院政期絵巻の絵画表現の摂取について」『大阪大谷大学歴史文化研究』20号、2020年、11-31頁。⑽注⑺前掲神山氏論文。⑾注⑺前掲神山氏論文。⑿注⑵前掲田中氏論文。⒀相澤正彦「『誉田宗庿縁起』の絵師とその画風」『MUSEUM』527号、1995年、4-18頁。⒁粟田口隆光ら粟田口派の絵師たちの動向については、注⒀前掲相澤氏論文や、同氏「粟田口絵師考」上・下『古美術』83・84号、1987年において詳論される。  (前略)抑若州松永庄新八幡宮ニ有絵云々、浄喜申之間、社家へ被仰て被借召、今日到来、有四巻、彦火々出見尊絵二巻、吉備大臣絵一巻、伴大納言絵一巻金岡筆云々、詞之端破損不見、古弊絵也、然而殊勝也、禁裏為入見参召上了(後略)

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