鹿島美術研究 年報第37号別冊(2020)
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16世紀ボローニャの人文主義者アキッレ・ボッキの『象徴提要』にも引き継がれ(シンボル92番「嫉妬には復讐ではなく、恩義をもって報いよ」)、カラッチ一族もよく知っていたと思われる〔図4〕(注12)。カルロ・カラッチの〈憂鬱〉─サン・ペトロニオ聖堂ヴォールト案をめぐる論争ここでヘラクレスが「知的に」思考しているのだとすれば、それは作品が捧げられたカルロ・カラッチの人物像とどのように結びついているのだろうか。カルロ・カラッチはルドヴィコらの叔父にあたり、カラッチ一族の出身地にちなんでイル・クレモーナとも呼ばれた(注13)。カルロは応用数学や幾何学に通じており、『沖積層の分割法』(1579年)といった測量的方法論の実践書を執筆する一方、織物・古物組合(Arte degli Drappieri e Strazzaroli)の中心人物としても活動していた。この組合は洋服の織物の選定からデザイン、縫製までを手がける、現代で言うオートクチュールの職人集団であったとされる(注14)。一点透視図法など絵画制作に生かしうる知識を持ち、かつ組合の活動を通じてボローニャの有力者との縁故もあるカルロは、ルドヴィコら甥たちにとっても重要な存在であった。おそらくこうした業績を見込まれてのことであろう、1580年代後半、カルロに対してある建築プロジェクトへの助言が求められることとなった。市内中心部に位置するボローニャ最大の教会、サン・ペトロニオ聖堂のヴォールト案である。サン・ペトロニオ聖堂はボローニャの守護聖人、聖ペトロニウスを献堂対象として14世紀に建設が開始されたが、そのヴォールト高をめぐって、シクストゥス5世時代(1585−90年)の教皇庁側と、ボローニャ都市政府側との間で意見が分かれていた〔図5〕。幾何学に長けたカルロ・カラッチは、ザンベッカーリ家を中心とする都市政府派の支持を受けて緻密な陳述書を提出し、50.73メートルというヴォールト案を主張した。一方、教皇派の建築家テッリビーリアが提案したのは40.09メートルという高さであった〔図6〕。1588年2月に開始されたヴォールト建設は、カルロの提言を受けて中止され、以降長期に亘って議論が続けられた。しかし一向に結論は出ず、当時ローマで活動していた建築家、ジャコモ・デラ・ポルタとドメニコ・フォンタナによって、カルロとテッリビーリアそれぞれの案に対して査定が行われることとなった。その結果、ローマの建築家たちはカルロの案を「実現性がない」として退け、テッリビーリア案の方を支持した。カルロ・カラッチが提案したアド・トリアングルムという正三角形を基本図形とする設計は、ミラノ大聖堂などのゴシック建築でも取り入れられていたが、当時はまだ理論的に確立していると見做されてはいなかったのであ― 80 ―― 80 ―

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