鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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地の墓葬文化が平城に流入した結果であると指摘する(注17)。このような状況のため、第6窟の蓮花化生に十字髻を採用した際、果たしていずれの地域からの情報が直接的な影響を与えたのかはわからない。しかしいずれにせよ、十字髻は元を辿れば西晋に由来する風俗であり、それを仏教造像に取り入れたことは一連の漢化の流れに即していると言えよう。(4)中心柱の周囲の如来立像第6窟の中心柱各面上層には如来立像が1体ずつ彫出され、周壁にも3体ずつ(南壁のみは2体)如来立像と脇侍などが刻出されている〔図14〕。壁面上層に並ぶ如来立像は、合計15体である。如来立像を上層に刻出する例は、460年代の第19窟にも認められるが、これだけ多くの如来立像を併置する例は雲岡では第6窟が最初である。他地域の石窟でも類例は少ないが、金塔寺東窟天井に如来立像が多数描かれている〔図15〕(注18)。同窟の天井は中心柱の部分だけが折り上げ天井のように高くなっており、周囲との間の傾斜面に如来立像が各面10~13体ほど描かれていたようである。西夏時代の重修によって細部を確認することはできないが、立像はいずれも、中心柱最上層の尊像と向き合うような位置に描かれており、雲岡石窟第6窟が周壁に如来立像を並置していたことと似る。周壁ないし中心柱の上層に8体以上の如来像を並置する作例は雲岡石窟第6窟以降増えるが、河西地区では馬蹄寺千仏洞第2窟〔図16〕が造られた(注19)。同窟では中心柱最上部に通肩の如来坐像を5体描いており、傍題に「東南方無憂徳□」「西南(方)宝施仏」などの文字が見え、十方仏を表していたことがわかる。現状では、中心柱四面の壁画全体がどのように構成されていたのかを知ることはできないうえ、金塔寺東窟、雲岡石窟第6窟ともに如来立像の数も一定しないが、多数配置された如来立像には十方諸仏のイメージが重ねられていた可能性があるだろう。4、結論以上、雲岡石窟第6窟で新たに採用された4つの形式について来源を検討してきた。その結果、次の4点が明らかとなった。①如来像の頭髪を旋回文と波状線で表す形式は、中央アジア造像を直接の祖とし、西安周辺ないし河北地域などを経由して取り入れられたと考えられること、②菩薩像宝冠周囲に小さな花形装飾を3つほど配した形式は中央アジアの天人像と一定の共通点を示しながらも、南朝の風俗から影響を受けた可能性が高いこと、③蓮花化生に採用された十字髻は西晋に由来し、西安周辺と南朝で盛んに造形化されていたこと、④周壁上層に如来立像を多数配置する構成― 95 ―― 95 ―

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