鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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注⑴第6窟の造営計画が造像の細部形式の選択にまで及んでいたことは、小澤正人氏「雲岡石窟第6窟上層龕如来立像の製作についての一考察」(『美学美術史論集』第14輯[東山健吾教授退任記念]、成城大学大学院文学研究科、2002年、157~192頁)によって明らかにされている。は、金塔寺東窟から影響を受けた可能性があること。これらの結果は、雲岡石窟第6窟が特定の一地域のみからの影響だけではなく、多様な地域の造形に関する情報を取り込み構成されていることを示している。窟内空間の基本的な構成と関わる④については不確定な要素も多いが、中央アジアや河西地域から中心柱窟の構造の情報とともに、様々な造形情報が雲岡石窟に伝わっていたとしても不思議ではない。上述した項目のうち特に興味深いのは、頭髪表現である。従来は仏教造像の漢化といえば着衣形式が注目されてきたが、今回新たに、それ以外にも菩薩像頭部の小さな花形装飾や、蓮花化生への十字髻の採用も漢化と呼べる特徴であることが確認された。他方、如来像の頭髪には中央アジア的な表現が選択されている。つまり、第6窟では、着衣形式は尊格を問わず一様に漢化を経ており、菩薩および蓮花化生には頭髪、頭飾に至るまで中国風に統一されているにもかかわらず、如来像にはむしろ西域色が加えられたことになる。そのような対比が生まれた背景には、急激に進んだ造像の漢化によって、尊像が世俗化してしまうことへの恐れがあったように思われる。非中国的要素を如来像に敢えて加えたことにより、超越的な存在としてのかたちを保持しようとしたのかもしれない。なお、早期の南朝造像には現在のところそのような対比は認められない。したがって、頭髪および頭飾に見えた如来と菩薩像等との対比は雲岡石窟第6窟独自の選択によって生まれたと言える。今後は、さらに異なる角度から第6窟の特徴と造窟思想について考察を深めていきたい。⑵宿白「雲岡石窟分期試論」『考古学報』1978年第1期、25~38頁および「平城における国力の集中と〈雲岡様式〉の形成と発展」雲岡石窟文物保管所編『中国石窟雲岡石窟』第1巻、平凡社、1989年、170~199頁。また近年、岡村秀典氏は「雲岡石窟編年論」(京都大学人文科学研究所・中国社会科学院考古研究所編著『雲岡石窟 第17巻 第1窟─第6窟 本文』科学出版社東京、2017年、1~51頁)において、各期をさらに3段階に分ける新たな編年を提示した。⑶雲岡石窟第6窟についての重要な論考は多いが、紙幅の都合により列挙することは避ける。基本的な情報については、水野清一・長廣敏雄『雲岡石窟─西暦五世紀における中国北部仏教窟院の考古学的調査報告─東方文化研究所調査 昭和十三年-昭和二十年』第3巻、京都大学人文科学研究所雲岡刊行会、1955年(以下『雲岡』と略称)を参照した。⑷仏像の着衣形式の漢化については次の論考に詳しく述べられている。長廣敏雄「雲岡石窟に於ける仏像の服制について」『東方学報』京都第15冊第4分、1947年、1~24頁。楊泓「試論南北朝前期仏像服飾的主要変化」『考古』1963年第6期、330~337頁。― 96 ―― 96 ―

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