鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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⑸齋藤竜一「中国南北朝時代の敦煌莫高窟における中心柱窟の展開」『成城文芸』第162号、成城大学文芸学部、1998年、114~76頁。「中国雲岡石窟における中心柱窟の展開とその影響」『美学美術史論集』第14輯、成城大学大学院文学研究科、2002年、247~275頁。⑹宿白「涼州石窟遺跡和“涼州模式”」『考古学報』1986年第4期、435~446頁。⑺樊錦詩・馬世長・関友恵「敦煌莫高窟北朝石窟の時代区分」(敦煌文物研究所編『中国石窟敦煌莫高窟』第1巻、平凡社、1980年)203頁に述べられているように、第259窟は敦煌莫高窟北朝窟の第2期(465~500年頃)に属し、中心柱窟として未完成の特徴を示している。また、左右壁の構成が第275窟と酷似することから、第2期のなかでも特に早期の段階に属すると考えられる。金塔寺石窟の造営年代には諸説あるが、5世紀中後期とする説が最も有力である。敦煌研究院、甘粛省文物局、粛南裕固族自治県文物局編著『粛南馬蹄寺石窟群』北京:科学出版社、2020年、7頁。また、八木春生「雲岡石窟と河西石窟群について─河西石窟群の造営年代を中心に─」(『雲岡石窟文様論』法藏館、2000年)39~64頁に述べられているように、金塔寺東・西窟には、雲岡石窟第1期後半に開鑿された第17、16窟からの影響とみられる要素が複数存在するため、造営年代の上限は460年代後半と考えられる。下限の設定は難しいが、他地域では王母宮石窟(甘粛省涇川)、義県万仏堂石窟(遼寧省)などのように、雲岡石窟第6窟からの影響を示す石窟が恐らく太和年間中に造られた。それらの窟では、少なくとも一部の像に着衣形式の漢化の影響が認められる。金塔寺東・西窟にはそれが一切認められないため、第6窟に先行していた可能性が高いと判断した。⑻先行する第7窟主室正壁下層龕主尊頭部にも波状線が一部に認められるが、その後第6窟に至るまで、雲岡石窟ではなぜか採用されなかった。⑼樋口隆康監修『パキスタン・ガンダーラ美術展図録』日本放送協会、1984年、図版Ⅰ-15、16。⑽トックズ・サライ出土塑像の年代については、Jacques Giès, Les Arts de lʼAsie centrale: lacollection Paul Pelliot du musée national des arts asiatiques-Guimet.Ⅱ, Paris: Réunion des muséesnationaux, 1996の図版キャプションを参照した。⑾図版は国立博物館所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/kyuhaku/C3?locale=jaを参照(最終アクセス2021年11月6日)。⑿松原三郎『中国仏教彫刻史論 本文編』吉川弘文館、1995年、29~30頁。⒀山西省大同市博物館・山西省文物工作委員会「山西大同石家寨北魏司馬金龍墓」『文物』1972年第3期。⒁古田真一「六朝絵画に関する一考察─司馬金龍墓出土の漆画屏風をめぐって─」『美学』42(4)、美学会、1992年、57~67頁。古田氏は漆画屏風の制作地について「南朝の絵画資料、例えば南朝の屛風を写した粉本などに基づき、南朝の亡命貴族の指導により、北朝の地で忠実に再現された」との見解を示している。⒂黄能馥・陳娟娟・黄鋼(古田真一訳)『中国服飾史図鑑 第1巻』科学出版社東京、2018年、310頁。⒃沈従文・王(古田真一・栗城延江訳)『中国古代の服飾研究・増補版』京都書院、1995年、193頁。西安周辺の十六国墓については、咸陽市文物考古研究所『咸陽十六国墓』北京:文物出版社、2006年を参照。⒄趙婻「大同市平城区出土之北魏陶俑的初歩研究」『山西大同大学学報(社会科学版)』第35巻第4期、2021年、47~50、102頁。趙氏は、墓室の構造、副葬品の特徴などから東信広場M211(東信国際北魏墓)の埋葬年代は沙嶺M2墓と同時期の430年代頃であると推定する。― 97 ―― 97 ―

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