鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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⑩鎌倉時代の涅槃図における宋文化の摂取について研 究 者:大津市歴史博物館 学芸員  鯨 井 清 隆はじめに仏教の始祖である釈迦は、80年にわたる長い人生の末に、古代インドのマッラ国の首都クシナガラを流れる跋提河(熈連河・熈連禅河とも)のほとりに立つ沙羅双樹のもとで亡くなった。釈迦の死後、その人生は伝記としてまとめられ造形化されるようになり、最期の場面である「涅槃」は、特に重要な場面として多く制作されるようになった。それがのちに中国や韓半島を経由して日本へともたらされた。日本では、特に絵画作品である「仏涅槃図」(以下ただ涅槃図とだけ称す。)として、膨大な数の作例が現在も各地で大切に伝えられている。日本における涅槃の作例としては、法隆寺五重塔初層の涅槃群像が特に著名である。絵画作例として現存するのは、現在、金剛峯寺に所蔵される応徳3年(1086)銘のある作例をはじめとして、平安時代後期以降から増え始め、鎌倉から南北朝時代にかけてその数は一気に増大する。これらの涅槃図について、中野玄三氏は、平安時代の作例と鎌倉時代の作例は形式上大きく異なることを指摘され、平安時代の形式を「第一形式」、鎌倉時代以降の形式を「第二形式」と呼び、明快に区別された(注1)。そして近年、涅槃図の研究においては、特に平安時代から鎌倉時代にかけて、中国との関係において注目すべき見解が提出されており、新たな展開を迎えている(注2)。本論では、特に涅槃図の図像的なアプローチによって中国との関係性を探ることを主目的としているが、特に日本からの目線に立った際に、当時の人々が新しい要素をどのように取り込んでいったのかについて考察していく。以下、幸いに調査することができた作例の内、三重県内の四日市市・大樹寺本(三重県指定有形文化財)と、同県内の鈴鹿市・龍源寺本(鈴鹿市指定文化財)の二つを中心に調査報告を行い、検討していく。大樹寺本について大樹寺本は縦169.5cm、横124.1cm(絹継ぎは左から41.3cm、42.3cm、40.5cm)のやや縦長の画面で、「詫磨法眼榮賀筆」という落款から、詫磨栄賀(生没年不詳)の基準作と考えられる作例である〔図1〕(注3)。画面の中央に、宝床の上に右手枕で横たわる釈迦を描き、頭の傍らには仏鉢を入れた袋が置かれる。釈迦を取り囲むように菩薩や仏弟子、比丘、天部、力士、貴人、俗人を配し、画面下部には、種々の動物― 102 ―― 102 ―

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