大樹寺本の特徴さて、大樹寺本が詫磨栄賀によって鎌倉時代後半から南北朝時代に描かれた作例と確認できた次には、本図の図像についてその淵源をたどってみたい。例えば、本図は京都市・長福寺に現存する南宋時代に制作された涅槃図(以下長福寺本と称す)をベースとしながら、他本を参照して図像を取り入れている痕跡が見受けられる〔図3〕。釈迦の寝姿は右手枕に変更されているが、周囲を取り囲む会衆の姿やレイアウトは、おおむね長福寺本の姿を踏襲している。ただし、枕元に置かれた布に包んだ仏鉢や会衆の一部については、命尊筆の九州国立博物館本などからの図像の転用が認められる。また、会衆中の画面向かって左上には、壷を持った俗人の男性が描かれている〔図4〕。後に詳述するが、この壷は恐らく舎利容器と思われ、大津・石山寺本にも同じように壷を持つ男性が描かれている。以上のように、大樹寺本は、南宋の涅槃図である長福寺本をベースとしながら、それ以外の涅槃図から様々な要素を取り入れ、複合的に制作されたものであることが確認できる。それでは次に、本図に描かれるモチーフの内、仏飯を捧げる男性と、舎利容器を持つ男性に注目して少し詳しく考察していきたい。画面向かって右側中ほどに、仏飯を捧げ持つ男性が描かれているが、この人物は釈迦に最後の供養をした純陀であり、「純陀供養」の場面を表していると考えられる〔図5〕。純陀は、クシナガラに住む鍛冶師の息子で、釈迦に最後の供養をした人物である。巡錫中の釈迦は、純陀から食事の供養を受けるが、それにより釈迦は食中毒となり、亡くなってしまう。釈迦が亡くなる(涅槃に入る)きっかけを作ったのが純陀であり、釈迦へ最期に供養したのも純陀である。また、画面向かって左上に壷を持つ男性が描かれる。他作例にはあまり見られない姿であるが、釈迦の涅槃において壷で想起されるのが舎利容器であり、ここでは「分舎利」の場面が描かれていると思われる。釈迦の入滅後、その遺体はクシナガラのマッラ族によって荼毘に付された。その仏舎利をめぐって8人の王による争奪戦が起こったが、1人のバラモンによって分配されたのが「分舎利」と呼ばれる場面である。大樹寺本に描かれる壷を持つ男性は、釈迦の遺骨を分配したバラモン、もしくは舎利を受け取った八王の1人と想定される。このように、大樹寺本では2人の人物によって「純陀供養」と「分舎利」の場面が表現されていると思われる。舎利容器を持つ男性の姿は珍しいものであるが、純陀の姿については、わが国現存最古の涅槃図である応徳涅槃図にすでに登場しており、それ以降の作例についても大方描きこまれるモチーフである。しかし、大樹寺本が制作― 104 ―― 104 ―
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