鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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されるにあたり参照されたであろう長福寺本には、舎利容器を持つ男性どころか、純陀の姿も見えない。つまり、この2人は意図的に追加されたと考えられ、それは両者の姿が極めて似通っており、構図的にも対称させる位置関係にあることからもうかがえる。それでは、なぜこの2つの場面が取り入れられたのであろうか。「純陀供養」と「分舎利」については、釈迦の涅槃の際に特に重要な場面と考えられ、鎌倉時代以降に特に多く制作される八相涅槃図にはほぼ必ず取り入れられる場面である。よって以下、八相涅槃図を参考に検討をしてみたい。鎌倉時代以降、涅槃図の中に涅槃前後の場面が描き込まれる八相涅槃図が登場し、その後一定数制作されたようで、現存作例も少なからず見受けられる。日本における八相涅槃図の流布について注目されるのが、現在、叡福寺に所蔵される南宋時代に制作されたと考えられる八相涅槃図である(注4)。叡福寺本は、縦110.4cm、横59.3cmの比較的小さな画面に、釈迦が涅槃に入る場面の周囲に「純陀供養・顕紫金身」、「虚空上昇」、「阿難説法・帝釈天請舎利」、「金棺不動」、「金棺旋回」、「荼毘・分舎利」の7場面を配置した八相涅槃図である〔図6〕。本図については、近年、西谷功氏によって宋代の天台僧・仁岳による『釈迦如来涅槃礼讃文』との関係性が指摘された(注5)。叡福寺本以降、京都・万寿寺本や岡山・自性院・安養院本など、多くの八相涅槃図が制作・流布されていくようになり、それと同時に涅槃前後の場面についても周知されていったと考えられる(注6)。つまり大樹寺本は、そのように八相涅槃図が日本に流布していくなかで、「純陀供養」と「分舎利」の場面が取り入れられたものと考えられる。複数ある場面の内、この2場面が選ばれた理由として、「純陀供養」は釈迦の死を象徴すると同時に、仏に対する供養を象徴する人物として応徳涅槃図以来の伝統的なモチーフであり、また、「分舎利」については、鎌倉時代以降に盛んとなる舎利信仰の起点となる話であることから選択されたと想像される。また、特にこの2場面については、それぞれ純陀と舎利を分けたバラモン(もしくは八王の一人)という、特徴的な人物2人によって象徴させることが可能であり、この2人を会衆として描き込んでも涅槃図として不自然さがない点も、理由として想定されよう。以上、大樹寺本について考察してきたが、その結果、大樹寺本は長福寺本という新渡の宋代仏画の図様を基本としながら、様々な要素を組み込んだハイブリッドな作例であることが判明した。海外からの新しい要素をそのまま用いるのではなく、伝統的・同時代的な解釈によって再構成し、新たなものを作り出すという点において、大樹寺本は新しい要素を受け手がどのように受け入れるかについて考える際の有用な作例といえるだろう。― 105 ―― 105 ―

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