鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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(4)同時代─海北友松との相違(5)瀟湘八景=玉澗イメージの受容と展開の幅広さ徳「雪景山水図」(岡山県立美術館)〔図10〕や秋月等観「山水図」(クリーブランド美術館)、雲溪永怡「山水図」(旧ドラッカーコレクション)〔図11〕等、いずれも枠内に控えめに収まる構図と穏やかな墨色が特徴である。等顔が雪舟流を継いだ当時、山口に彼らの作品が残っていたとしても、慎重な筆触という点以外において雪舟画以上に学習した可能性は低いと判断する。桃山時代、玉澗に私淑した画家として海北友松が知られ、元押絵貼屛風の「瀟湘八景図」(群馬県立近代美術館ほか)など掛軸と「山水図襖」(建仁寺)、「楼閣山水図屛風」(MOA美術館)など大画面に代表作が残る。大画面への玉澗様採用の早い例としては、足利義政の別邸・東山殿常御所に「西の御六間 御湯殿の上 玉澗様山水」の障子絵の記録が確認でき(『小河御所並東山殿御飾図』)、その後は大徳寺如意庵方丈(現真珠庵)、霊雲院の襖絵にも狩野元信様式による玉澗様が採用され、桃山時代には定着を見せた(注7)。友松の溌墨山水図は、重厚さと量感を持つ作風から開放的で明るい雰囲気を醸成する方向へと変化する(注8)。広い余白、存在感のある楼閣など独自の解釈に基づく安定した画風が特徴であり、当時から友松ブランドとして禅僧や大名、公家など顧客の注文に応えていたのだろう。一方で等顔の溌墨山水図は画風が一貫しておらず、作品によって構図も表現も変化する。その自由な態度は、等顔の真体山水図の様式が概ね時系列に変化して前段階に戻らないことに比べると対照的である。等顔の溌墨山水図には「瀟湘八景」の画題を持つ作品と八景イメージを取り込んだ作品とがある。室町時代以降、玉澗「瀟湘八景図」の画賛は「玉澗詩」としても流通し、当時から瀟湘八景=玉澗というイメージは定着していたものと推察する。京都の高名な禅僧たちが玉澗詩を賛文とした、前述の友松「瀟湘八景図」は、五摂家の近衛信尹を仲介とした注文制作と考えられている(注9)。一方、近年新出した等顔「瀟湘八景詩画巻」(個人)〔図4〕は、跋文に「右寫玉澗之筆勢」とある通り、等顔が玉澗様の画を描き、萩で懇意の禅僧・洞春寺3世筠溪玄轍(1562-1612)が玉澗詩を記した合作で、両者の親密な交遊の上に成立した稀有な作例である(注10)。友松の公的な要素を伴う注文制作とは異なり、等顔の文雅の交わりを私的に愉しむという玉澗様受容のあり方に展開の幅広さが窺い知れる。― 114 ―― 114 ―

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