(1)『等伯畫説』にみる玉澗では、なぜ等顔はこのように玉澗に私淑したのか。桃山時代特有の玉澗評価と等顔の文化人的側面に起因するであろうことを次項以降で考察する。2.等顔の溌墨山水図制作の背景桃山時代は、15世紀の足利将軍家の唐物コレクション・東山御物の評価体系を軸とした中国絵画趣味が未だ強い規範性を持ち続けた一方で、千利休(1522-91)によって大成された茶の湯(佗び茶)の隆盛がピークに達した時期であった。茶の湯の評価軸が当世の価値基準の一つに加わったのである。等顔の茶の湯や連歌の教養については先行研究でも指摘されてきた(注11)。さらに近年、新史料の発掘により、等顔が多彩な文化的教養によって毛利輝元(1553-1625)の御伽役を務め、毛利家の文化的ブレーンを担った実像が具体的になってきた(注12)。文化人・等顔の人的ネットワークは、拠点の山口のみならず京都や博多の禅僧・商人(茶人)・連歌師と幅広い。等顔にとって重要だったのは、その交遊がもたらす唐物の鑑賞や情報であっただろう。本項では、特に茶の湯の側面に注目し、桃山時代の玉澗の評価や受容のあり方について『等伯畫説』、『山上宗二記』および茶会記に確認する。『等伯畫説』は日蓮宗本法寺住持・日通(1551-1608)による長谷川等伯(1539-1610)の物語した聞書きで、文禄元年(1592)前後の成立とされる。等伯が私淑した南宋時代の画家牧谿に関する記事が多いなか、玉澗については11箇所ほどが確認される。旧東山御物の瀟湘八景図8幅について「初百貫宛ノ畫ナレ共茶湯盛ニナルニ随テ千貫後ニ三千貫云々」と記しており、その金銭的価値が茶の湯の隆盛とともに30倍に跳ね上がったことは当時の玉澗人気の高騰ぶりを物語る。また等伯はその他の玉澗画についても「天下四幅ノ畫ト云ハ 古木 枯木 波 岸 也 皆玉礀也」、「八幅ノ玉礀ヲ小玉礀ト云也」(正確には八幅ノ玉礀と小玉礀とは異なる)と紹介する。とりわけ旧東山御物の対幅「波」・「岸」絵については複数回の記述が確認され、その重要性が示唆されるが、これらの作例は後述する同時代の茶会記にも使用が散見されるものである。源豊宗氏によれば、中国絵画をはじめとする等伯の芸術上の知識は、堺という数寄(茶の湯)文化に基づいており、同じく堺に縁のある日通との談話は、「単なる絵画の史実ではなく、あくまでも数寄の世界での話題であった」との見方を示された(注― 115 ―― 115 ―
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