鹿島美術研究 年報第38号別冊(2021)
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13)。室町時代から宋元の名家の作品を珍重し、桃山時代の茶会記に見える床の掛物も宋元画が主流であったなか、日本人の鑑賞が盲目的な受容ではなく玉澗・牧谿を高評価した主体的な鑑賞を行っていた事実を『等伯畫説』はよく示していると述べた上で、「端的な禅的趣味の喜ばれた当時においては、牧谿の瀟湘八景よりもこの玉澗が高く評価された。」と指摘している。(2)『山上宗二記』にみる玉澗(3)茶会記にみる玉澗堺の町衆で千利休の高弟・山上宗二(1544-90)による『山上宗二記』は、主として唐物茶器や絵画等の名物記で、天正16年(1588)の成立である。室町時代の伝統に基づきながらも、利休主導による「当世」茶の湯の価値基準を採用し、212点を列挙した流行最先端の名物リストである(注14)。目利きの指南書でもあるが、単なる真贋の判定ではなく、当世の茶の湯に適するか否かで道具を選別することが主眼であった。つまり「数寄道具」と呼ぶものが最上位の名物なのである。本書において中国画家でも高い評価を得たのが玉澗であった。「御絵之次第」では『等伯畫説』にも掲出された瀟湘八景図8幅と古木、枯木、波、岸、万里高山、青楓、小玉澗の15幅の玉澗画が列挙され、所有者や現存の有無に加えて賛文の情報も記録されている。玉澗の次には牧谿の5作品が掲出されるが、牧谿の瀟湘八景図(大軸・小軸)計16幅については「古人ノ名物也ト云テ用。当世ハ如何。(略)但、侘数寄所望無シ。」とし、当世の茶では「使用しない」という厳しい評価を下している。つまり東山御物の名物であろうと侘び茶に適しなければ「不用」であり、当世の茶の湯では牧谿より玉澗が極めて高い評価を得ていたことを示している。次に、室町時代末期から江戸時代初期の4大茶会記『天王寺屋会記』、『今井宗久茶湯日記拔書』、『松屋会記』、『宗湛日記』に当時の玉澗画受容の実態を確認する。上述の『等伯畫説』、『山上宗二記』にみる茶掛評価では牧谿より玉澗が高評価であるものの、4代茶会記における使用例は、玉澗よりも伝来作品数が断然多かった牧谿が画題47種と唐絵では最多である(注15)。次いで多い玉澗は17種ほどである〔表1〕。本表1は4大茶会記と、天正16年(1588)の毛利輝元上洛日記『天正記』(輝元家臣平佐就言筆)所載の茶会における玉澗作品の使用例を確認した結果である。このうち旧東山御物の瀟湘八景図は、大内氏時代に山口で滅したと伝わる「江天暮雪」以外の7幅すべてが確認できる。織田信長や豊臣秀吉など天下人の茶会でも使用― 116 ―― 116 ―

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