(1)毛利家の文化的ブレーンとしての側面され、とくに秀吉は大坂城や大徳寺での大茶会において数幅を用いている。このことは唐物の名物と当世茶の湯の名物という二重の価値を創出し、玉澗画の評価をさらに高めただろう。輝元も秀吉から特段の接待を受け、茶席で「煙寺晩鐘」と「青楓」を実見している。また瀟湘八景図のほか、今井宗久蔵の旧東山御物「波」絵など、所有者が茶会の席主の場合は頻繁に使用され、玉澗作であるからといって秘蔵された訳でもない。これらの茶会に参加した客は京堺・博多の商人のほか大名、僧侶と多彩な顔ぶれで、玉澗の図様と画風は広く共通認識のものとなっていった。このような状況から判断すると、幅広い人脈を持つ等顔であれば、主君の輝元はもとより輝元と懇意の天王寺屋津田宗及や、その子息で等顔と馴染みの大徳寺住持・江月宗玩(1574-1643)など親交のある商人や禅僧を介して玉澗画を観ることも可能だったと考えられよう。3.等顔の溌墨山水図制作の意義当世の茶の湯における玉澗評価の高さと受容の実態について、茶の湯に通じた等顔であればなおのこと実感を伴って理解できたはずである。本項では等顔の社会的地位と役割に注目し、溌墨山水図制作の意義について試論を述べたい。等顔は輝元の文化面を担う側近として、京都の江月宗玩など禅僧への賛文依頼などの取次や絵画鑑定など、室町時代の足利将軍家の同朋衆にも似た職掌を担い、連歌や茶の湯などの教養で御伽役を務めていた。ここで輝元の茶会関係の記事に注目すると、対外的な茶会に文化的性格の強い家臣が相伴していたことが分かる。天正16年(1588)輝元上洛時のものと推定される、千利休が輝元を茶会に招いた書状には「佐世殿、堅田兵部殿、御両所御供候て」と家臣2人が相伴している(注16)。また『利休百會記』にみえる輝元参加の茶会では、「(天正18年(1590)ヵ)八月十八日朝 輝元壹人(略)御跡見 堅田兵部 佐世與三左衛門 奈良崎孫右衛門 ししと(宍戸)善兵衛」、「(天正19年(1591)ヵ)閏正月十一日朝 輝元殿一人(略)佐世與三左衛門 林肥前守」と同席した家臣の名が見える。佐世とは輝元の重臣佐世元嘉(1546-1620)のことで等顔の寄親(直属の上司)であり、等顔と毛利家の連歌を主導した人物である。また博多の豪商神屋宗湛主催の慶長2年(1597)5月5日の茶会(『宗湛日記』)に輝元は「御咄ノ衆」(御伽衆と同義)を相伴させており、このような場に等顔が同席してもおかしくはない。さらに輝元の萩藩内での茶会に注目すれば、「一らうそく拾五挺 右者従 若殿様― 117 ―― 117 ―
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